雨風に負けて人生に負けて 財も誉も信も無く からだだけが丈夫で
人を羨み、世間を憎み、生まれを賤しむ
雨風に負けて 人生に負けて 独りよがりに生きる 食欲だけは旺盛に
あんな人間になるなよと あんな人生を歩むなよと
後ろ指をさされ、人はうらぶれているという
雨風に負けて人生に負けて そんな生き方でありたい
雨風に負けて人生に負けて しかし、常に笑顔だけは忘れずに
悲しい時も苦しい時も いつも笑っていられる そんな人間でありたい
雨風に負けて人生に負けて 万天の野原で星空を眺め
雨風に負けて人生に負けて 大海原の水平線を見つめ
生きていてよかったと 少しだけ思えるような
父と母にそして妻に感謝し 人間に生まれたことを感謝し 行く人に感謝し
そんな人生でありたい
"日暮想集"
私に残された時間はそう長くはない
その時間をただ生き抜き 新しい想いを創ろう
世界に向けて 人類に向けて
あらん限りの知恵を思考を 語ろう
面白おかしく楽しく 世界に向けて 人類に向けて
南の小さな漁村のルーツを
私には直接の血縁を持つ人間は2名しかいない
一人は妹であり彼女に子はないのでそれ以上のつながりは生じない。あとは一人の娘がいる。彼女だけが不思議な血を背負って生きて行く。しかし、彼女は女の子であり、目良という名前は終わりにした方がいいようである。
故郷は徳島と高知の県境の町 牟岐から宍喰へと続く地域と言える。私は故郷を捨てたかった。そして捨てた。
しかし老いを知り、死を見つめる中であの生まれ故郷もう一度見つめてみるのもいいのかもしれないと思いだした。
父は目良功 目良三平と称した俳人、川柳人であった。宍喰町に生まれ多田正雄の長男として、八尾中学を出て、早稲田に進み中退、生涯無職であり、町や地域の名誉職を生きた。母は目良巽 目良有紀と称した。歯科医師として牟岐町および神戸市灘区で開業した。目良有遠の長女として生まれた。
父もそうであったが、私は既成の考え方はほとんど気にしない。ルーツなどどうでもいいのではと思う。しかし
何か必要になる場合もないとはいえない。嘘か本当かも知らない言い伝えられたことだけを残しておく。
まずは「目良」である、京都の教育委員を務めた母の叔父によれば、そのルーツは和歌山の目良村ということになる。捕鯨を含めた職種の中の一つなのだろうか、筋師という名の友人がいるが彼もまた和歌山大地の出身である。牟岐からは紀伊水道をはさんで対面が南紀、恐らくそういうことなのだろう。
戦前日本には3大水産会社があり、大洋水産、日本水産そして大平水産と言う。その大平水産の関係というのか姻戚で目良水産があったという。そしてそ祖父は養子であったが最も目良水産が繁盛した時代であったという。港港に女あり、そういう面も大変盛んな人であったと父がきいたと私に話してくれた。もちろんこれも噂でしかない。確かに私が幼い時に、知らない親類というのがいろいろ尋ねてきていたのを知っている。すべて真実かどうか知らない。
そ祖父、祖父、父と養子であった。そ祖父はどのような出自かは全く知らない。
祖父は名を有遠といい、牟岐から南の部落に当たる海部の「門脇」の出である。門脇は、平清盛の弟 則盛の別名であり、壇ノ浦で仁徳天皇とともに果てたという。平家の落ち武者のある意味大将格である。
この一族が落ち延びて、四国を右回り、最後にたどりついたのがこの徳島の南の地であった。このことは結構真実に近い。いろいろな証拠もあるらしい。門脇家を称する家系はいくつかあるらしいが、正真正銘の門脇家の直系であるらしい。江戸時代は阿波藩主の盟友格であったという。家来ではないということである。その門脇家の二男坊が当時飛ぶ鳥を落とす勢いの目良水産の一人娘 目良よし子の婿となる。それが母の両親である。
祖父は養子に来る前は、潜水艦乗りであったと聞く。欧州までも遠征に参加し、若い時期に海外を肌で知っている。まじめな人であるが、この人も血脈に人生を翻弄された人である。
平則盛の直系の子孫という誇りは、彼の心に常に生きていたように思われる。そしてそれなりに能力のある人であったが、それが世間に受け入れられない悶々とした人生でのあった。水産業を継ぐ事はなく、そして目良水産の資産を株の売買で食いつぶした人であった。逼塞したという表現を使うのだが、海部の門脇家も逼塞し、そして目良水産も逼塞した。母は小学時代を大阪で暮している。食べていけないために預けられたということである。
しかし彼には軍人の恩給があり、その恩給は田舎では相当の金額であったらしい。すべてを整理し、牟岐に帰り、残された風呂屋に身を落として生きる覚悟をしたのだが、それなりにお金があり、娘を女学校から、自分で食べていけるようにと、歯科専門学校へと進ませる。
父、功は 宍喰に生まれた。多田の名前は、町史の頭出てくる。京都の皇室から派遣された皇族の今でいうビオディガードとしてこの地に同行している。宍喰は面白い町であり、祇園祭が日本3大祇園祭として私が小さいことは京都、博多とともに大きな祭りであった。恐らくはこの地に派遣された皇族が残したものなのだろう。
南に峠を越えると高知県、甲の浦、この地は祖父の門脇家と関係している明神家がいる。門脇と明神は姻戚だが多田は違う。なぜなのか、面白いがわからない。門脇家は宍喰の北方向にあり、阿波の南の方の方言を使う。明神は土佐言葉である。しかし宍喰は、阿波でも土佐でもない、独特の言葉を使う。これも面白いが何故だかわからない。
この宍喰の多田の三男である正雄の長男として生まれた。正雄は私が小さいころになくなりあまり記憶にはないが、父の言では静かな田舎のインテリであったという。二人の祖父、同じように1000年を超える長い長い歴史の家系を持ちながら、その性格は大きく違った。それも環境である。
功は大阪の八尾中学に進み、水泳に没頭し、勉学はほとんどしなかったと語っていた。そして早稲田に進む。入学式に出ただけで、あとは新宿の武蔵野館で毎日映画を見ていたという。もちろん、早稲田を中退する。中退後高度計を製作する会社の、それは早稲田時代の下宿先でもあるのだが、社長の会社に就職し、社長秘書的な書生でぶらぶらしていたという。そして徴兵に取られそのまま開戦、中国に送られ、5年の月日を過ごしたと。
そして昭和22年故郷宍喰に帰った。そして昭和27年目良に養子に出る。妻は歯科医、それから93歳で亡くなるまで、職に
生まれた町
八坂八浜 故郷の町を過ぎると 室戸方面に向かう徳島から高知の県境に 八つの坂と八つの浜があり、父の生まれ故郷「宍喰」へとつながる私の原点なのかもしれない。旅に出て、道を歩きながら、想いを短詩文芸として記して来たし今後も続くのだろう。人生は八坂八浜、七難八苦、古里を想い出す。短詩文芸の才能もさほどではないのだろうが、それが私の原点であり、到着点であると思う。四国・徳島の南端の小さな、まさに漁村に生まれました。生まれた家から浜辺まで数十秒、小さな堤防を超えると波が打ち寄せる浜辺に至ります。幼いときの思い出は、小児喘息、少年時代の思い出は、少年野球。故郷を捨てる、それが自分の半生だったように思います。
バブル時代に、事業に失敗し、当時住友銀行系のある金融会社の常務さんでしたでしょうか、「貴方は人間失格だ」とののしられた時、年少時台、少年時代から持ち続けた、鬱積した何かが一瞬にして飛び去り、心の中がすっきりとした事を覚えています。なぜ、そのような気持ちになったのか、老いを楽しみながら、老い行く姿かたちを面白がりながら、過ぎ去った日々を多少思い出してみようと思います。
母は町に一軒だけの歯医者さん。幼い時は、内科1件産婦人科1件、そして県立病院、内科ができ、眼科も、でも記憶にある限りは その4件程度、牟岐町から海南町、海部町そして災難の県境の町が宍喰町、その5町で歯医者さんは1件、いや県境を越した甲ノ浦超まで歯医者さんはありません。患者さんは、バスに乗り弁当を持って一日がかりで通院。そんな時代のそんな歯医者さんで育ちました。今で言う歯科助手が2~3名、歯科衛生士が2名、技工士が1名。母親は夜遅く、いや明け方まで入れ歯の技工、総義歯が一日に5~10個、大変な時代がほんの50年ほど前の日本の田舎の歯科医療事情でした。
「目良」というのは、もともと和歌山、紀伊水道をはさんでと対面が和歌山です。そこから流れてきたという話を聞きました。母親は、目良家の長女、次女は聾唖者で2人娘でした。母親の妹は、昭和16年生まれですから、一回り違い、第2次大戦の中で乳児期を送り、十分な栄養等が無く、聴覚に障害を持ったという事です。しかし、日本の同じような地域にも同じ子どもたちが生まれたわけですから、栄養不足、それだけが聴覚を失った原因とも思えません。遺伝でもないのでしょうから、胎児時代からそして生誕後聴覚を失うまでの状況が問題となります。この事は、「子どもたちの成長」という研究テーマのうちの一つで、考えてゆく事になります。生まれた時、母親は既に歯科医院を開業し、祖父は風呂屋さんを開業していました。魚村では、網元が風呂屋さんを開き、漁民やその家族にお風呂を提供していた歴史があります。戦前から戦後にかけての激動期に、祖父は多くの事業に失敗し、風呂屋さんだけが残り、元々彼も海軍の軍人さんで潜水艦乗りでしたので、軍人恩給と風呂屋さんの収入で生活をしていたようです。
彼も養子、隣の隣の町の「海部町」の門脇家からの養子。父親もその隣町の「宍喰町」の多田家からの養子、詳しくは分かりませんが、私が5代目で出来た初めての男の子だと言う事でした。私の父まで4代養子が続いて、短い歴史ですが、そんな環境に生まれました。
祖父は、「門脇殿」と呼ばれた平家の平清盛の弟則盛の直系、その事実を示す古文書などはイヤになるほどあったと、父が言っていました。父は宍喰を開いた多田なんとかと言う人の子孫、宍喰町史の最初に出てくるのですから、本当なのでしょう。その二人が「網元」の目良家の養子に来る。成り上がりの漁師が歴史を求めたと言うのでしょうか、まるで小説の様な世界。祖父までも2代が養子、5代目にして初めての男の子だという話でしたが。家系など何の役にも立たない、自分がいかにあるかが大事だよと、父に教えられ、故に父も私もそんな歴史的な事にあまり興味もないのですが、成長時の環境というものにおいては、この歴史が私に大きく影響をしたと思います。そして、それが今の自分自身を作り、自分自身があると思えます。よきに付け蘆気についけですが。目良家には二人の娘、一人が私の母、もう一人は聾唖者、お金に任せて聾唖者の叔母は、小学校に行く前から、当時は遠く離れが徳島の今で言う支援学校へと送り出し、寄宿舎生活。母は、女だから医者よりも歯医者が良いと、歯科専門学校へ。牟岐と言う生まれた所から室戸岬まで、村々の長は、門脇家・多田家の流れをくむ親せき縁者、その中でなぜか父は信望があり、母は町でただ一つの歯医者。家にはお手伝いさんやら衛生士さん技工士さんがいて、食事時間には町のいや、牟岐から室戸までの地域の誰かが居て、典型的な田舎の「過保護」。保育所時代から小学4年の間の記憶は、小児喘息。記憶のほとんどは自宅で寝ている姿。発作が起きれば、本当に苦しい時間でした。今結構痛みに強いのは、この経験があるからでしょうか。運動はほとんどセロ、勉強は田舎ですからそれなりに出来ましたが、たいしたこともありません。心の中に、この古里を捨てたい、そんな気持ちが醸成した子ども時代だったように思います。
日暮 想集
15年12月14日 CT検査を行った。
ほぼ6月の転移がんは消滅しあと一つ大きながんも縮小し中抜けが大きくっていた。
あと少しでとりあえずは消滅しそうである。
もちろん、進行がんであり、まだ目は体中に残ってはいるのだろうが、現状のがんを消滅させ
抗がん剤低用量と免疫療法が二本立てである。その後は継続した免疫療法を続けて、ガンと共存する、大きくなれば抗がん剤がカテーテルで対処する。この戦略が基本となり、その前提として体を整える、体と鍛えるの二つの基礎を行うことである。
ということは、忙しくなるということであろう。
やらねばならないことが目白押し、駆け抜けるしかない。2016年新し
いま、Beam onのガンへの治療効果とくいしばり。症候群について考えている。基本は同じようなものであり、メンタル―ストラクチャー―ファンクションのトライアングルの。整理に加えたトリートメント以外にないのだろう。
ブラキシズム症候群も、私がアメリカに渡ったきっかけとなったものであり、あれから35年の月日がたち、改めて関与すると。いうのも奇遇なのだろう。
僕は結構親父に似て不器用で、理屈を、立てて整理して理解して始めて動く、運動すら。頭での整理がないとうまくいかない。いまでも覚えているがぬ沼島先生がバットの振り方を、選択竿を持たせて教えてくれた。腕だけで振るのではなく腰を中心として体で振るのだと、その一瞬で目が覚めた、それからは面白いように打つことができた。理屈を。頭で理解しないと、運動までもできない不器用さである。
アメリカ時代から35年の日時がたち、でもまだ歯科医学の中で得このブラキシズム症候群は色もの、認められていないようである。
1)明確な論理的な検証ができていない
2)対象が幅広く絞れないために知識としての汎用性がない
3)治療法が技的なものであり、技術としての汎用性がない
ことになる。
となると、
概要としては、「わかりやすくすること、汎用性のあるものにすること」この二つが、ブラキシズム症候群には必要なのだろう。
人生は九転十起、30からの人生は転び立ち上がる人生だった。誹謗中傷、言いたいこともあった、黙っていることが男の本分と耐えた30年だった。○野事件、SC○事件、○上事件、それらによる自己破産、UN○○事件、新○事件、そして角○事件、松○事件、福○・小○事件9転び、松○事件が実質的な勝訴で終わり10起き・・61歳で腎盂がん、肺転移 それで人生が大きく変わる。ガンに感謝なのかもしれない、よくがんが人生を変えたという、私も本当にそうだった。ひたすらに前に向かって走った30年転び立ち上りまた転びの繰り返しの30年、ガンに始まった3度区切りの始まり、これから30年は生きないだろうが、なにはともあれ3度目の30年は死を見つめながら、いかに生きるかになりそうである、楽しく面白く生きてそして去ってゆきたい。
事件はいろいろあるが、逃げて、弁解して、そんな連中も多くいた。転んだことに、弁解はせず、逃げることもなく、批判も責任も中傷もすべて受け止めて、そして事実の公表もせず、ただ黙して起き上がり、すべて自分の心だけにおいて生き続け、それが自分を高めてくれる。そして死んでいく。そんな生き方をこれからも続けよう。
色々な壁が目の前に立ちふさがればふさがるほど、それを乗り越えようとする、情熱がぶくぶくと吹き出てくる。10月末でACO時間の誹謗中傷も和解で終わった。一応けじめとして、この結果を関係者には知らせるが、それを長く持ち込む気もない。M君はそんな謝罪文を自分のブログに乗せるのも信用を落とすことになる、そんなことは望まない。僕は壁が高ければ高いほど燃える、ハンディのある戦いが大好きでもある。困難が大きければ大きいほど燃える。彼にそれを求めるのが無理なのだから、短期的にそれは終わりに
月曜日に入院し一週間ぶりの筋トレ。心地よい疲れである。ガンの治療に筋トレ、負荷を軽くかける。自分のプログラムの抗がん治療である。現状結果はよい。ただ自分の身体は自分で判断できるのだが、他の人の身体の評価はどうするのか、なかなか難しそうであるが、子ども達の、口腔育成の等々のホルモン検査が何かヒントになりそうである。
人生は九転十起S事件、U事件、S事件、F事件
大きな事件はこの程度、まだ4つばかり、小さな事件はいろいろあるが、逃げて、弁解して、そんな連中も多くいた。最近は、Oと言う歯科医師もひどかったが彼の場合は発達障害であった。致し方がない。人生転びっぱなしであった。しかし、九転十起にはまだ余裕がある。そして転んだことに、弁解はせず、逃げることもなく、批判も責任も中傷もすべて受け止めて、そして事実の公表もせず、ただ黙して起き上がり、すべて自分の心だけにおいて生き続け、それが自分を高めてくれる。そして死んでいく。そんな生き方をこれからも続けよう。
誹謗中傷の裁判で和解。何と空しいことか。小額の慰謝料とわび状で、なんの創造性もない。そしてまだ自己主張をして自分の利益にしようとする人間もいる。くだらなすぎる。今回の裁判の被告の彼はそう悪くもない人間なのだろうが、それを乗せた人間がいるようだ。そいつが悪い。そいつに乗せられて、神輿に担がれると人間悪い気はしない。神輿に乗るのはやめることだ。いいことはほとんどない。
昨日から筋トレを始めた。1日75分ほどそして週に2回ほど、ガンの転移の病気、ステージⅣで筋トレも珍しいだろうが、僕の考えからすれば、その意味は十分にある。
しっかりとしたメンタルと構造を基本として、強い機能と潤滑な代謝が健康の源であり、その維持には負荷が必要となる。
負荷は常に加えれれてゆくべきであり、そういう意味では「ガンは病気ではない」のかもしれない。疾病はある程度の安静を必要とすることがある。しかしガンに対峙する場合は安静よりも負荷による健康の増進が基本であり、その上に治療が被さる。ガンが見つかった時点で健康の増進に舵を切ればいい、ということは舵の切れるときに発見しておく方がいい。早期に発見し、健康の増進に舵を切り、これ前での人生を見直し生き方をもう一度考える機会となれば、ガンも捨てたものでもない。
明日は終戦記念日である。父は20歳から青春の5年間を戦いの中で生きた。今も忘れない、西宮球場での日本シリーズに、当時の阪急の監督の上田さんに招待され父と数人の友人とで観戦に行った。日本国歌斉唱の時、父は平然と座ったままであった。本当に命を張って生きて来た男のすごさを肌に感じた。父は軍歌を嫌った、靖国神社も嫌いだった。しかし。皇室は敬愛していた。日本という国が大好きで、本当の愛国主義者でもあり、主義主張にはぶれない、凛としたそして体を張って、祖国と家族を守ろうとした、本当の日本人と言う、決して少なくはない人間の一人でもある。
あれから70年の夏が来た。あの戦争がなければ父の人生も大きく変わっていただろう。父はもういない。500万以上の人があの戦争で亡くなった。父は生き残り、名もなく貧しくそして楽しく生きた。死を賭けた男の凄さだけはもっていた
私は生命を賭けて、ガン治療を考えている。自分の寿命は自分で決める。勝つもよし負けるもまたよし。生命をはり、毎日を楽しく過ごしていこう。
故郷を離れ 50年近い日時が過ぎている
私をこの世に生ましめた あの太平洋に面した小さな町々
父は宍喰に生まれ 母は牟岐に生まれた
私の故郷は八坂八浜、坂の始まり浜の終わりの小さな漁村群
人生も間もなく終わるのかもしれない
人生の始まりの町は 今は遥か
父も母も天然の向こうへと去った
私も天然に向かう日も遠くはない
あの故郷のあの海の向こうに
父と母と私の天然の国があるのだろうか
目の前を流れる川は
天然の向こうへと続く
私も近いうちに天然に向かうのだろうか
生まれ来て 60数年 思い残すことも
それほどもなく 少しずつ天然への川の流れに
足を踏み入れているのだろうか
私とは何か、改めて問い続けるしかない
私はなぜ生まれなぜ逝くのかを考え続けるしかない
水無月の梅雨の季節の合間に
青空が広がり 陽が輝く
私はなぜここにいるのだろうか
2015.5.11
箱根山、大涌谷の危険レベルが上がり、警戒が続いてる。世界で噴火や溶岩の噴出がどこそこにある。ハワイ島の溶岩は流れるに任せて、その後に数百年後にまた森が出来る。そのような自然の営みに合わせて人間は生きるのだという。そんなものなのだろう。たかが数十年の人生、おそらく人間という生物の寿命の適性は60歳、私は2年が過ぎている。
地球の営みが続く、箱根のお山に続く、それは単に地球の営みでしか過ぎない、そこに生きる人はただその営みの中で見守るしかないのだろう。
2015.4.29
ネパールは懐かしい国である 30歳ごろに日本脳炎ワクチンの援助をした事があった。何回かカトマンズに出かけた思いでの地一つである。
大規模の地震に襲われた。死者は1万を超すのかもしれない。あの地で初めて「煉瓦」の英語を覚えた。それほど煉瓦が作りの家屋が多かった事を覚えている。
カトマンズは標高2800メートルの高地にあるネパールの首都である。牛の糞だらけの街だった。今はそのような事もなくなってはいるが、政情が不安定で、アジア最貧国のひとつであるという。
エベレストの神々は、貧しい人々を直撃する地震をとめる事は出来なかった。
神を信じる人々よ、なぜ彼らは死ななければならなかったのだろうか。まずしく生まれ貧しく生きただけの日々であったのに。
生命の軽さよ、生命は軽いほどにその意味は重くなるようだ。多くの貧しい人が逝ったという。青春の思い出の地であるあの国、あの街で、もう二度と行く事はないだろうが。
2015.4.23
この国は四季に恵まれ、四季は時の流れを教えてくれる。
時の流れは、老いることでもある。
老いの向こうには死がありすべての生物がそのさだめに生きている。
生物は生の為に死を求めた。
如何に素晴らしいシステムであったのか。
それは生物史をさかのぼり、そして今を未来を知る事でわかる。
いま改めて生と死を考える機会を得た。
私は病期で言えばⅣ、のガンの罹患者である。
命はいつ果てるのか、わからない。
その時期がいつなのか、それほど気にはならない。
一瞬にして逝く、
まだまだ多くのものを残しておこう
そして最後の最後に素敵な「死」を残したい。
客観的に、自分の人生を評価すれば、ほぼ不合格であり、失敗だられだと評価していいのだろう。その原因も、今となればほぼわかる。いまさら、歩いてきた半生を修飾しても何もないとなれば、赤裸々にそれを思い出せるだけ記してゆくのもおもしろそうである。
両親は名もなき詩人だった、俳句・川柳・・・、生れた時に、私の周りは俳句と川柳そして詩を中心とする短詩文芸を中心として多くの文学に囲まれていた。
日本人の2人に1人はガンに罹患すると言う、そして3人に1人がガンにより死亡すると言う。まさに国民病である。私は歯科大学を卒業して歯医者の免許は取得したが、動機が如何わしいし、医療関係のはしくれとして「ガン」を語るほどの立場にはない。そして、これまで行ってきたように、ガンと言う疾患について文献や資料を集め研究しようと言う事は今回は行わない。罹患する方が多い故に、出来るだけ一般人に近い立場で、そして本来の自分である生物学の立場で、ガンに対する考えを、語ってみたいと思う
そして、同時にガンにならないためにはどうするべきなのか、ガンになったらどうするべきなのかを
子どもたちの健康と向き合ってきた経験の中で、考えてみたいと思う。
ガンに罹患する、その時2つの死への恐怖と向かい合う。一つは罹患時の死への恐怖であり、次は再発へのガンを知った時、精神的にこたえた、死に初めて直面した、しかしそのストレスは、ガンに対する科学的視点が解決してくれた。そして外科的手術、抗癌剤治療。そうすると「再発」と言うストレスが、見え隠れする。再発という恐怖は、より厳しい現実であり、科学的な視点は、心理的な安堵を逆に与えてはくれないだろう。恐怖である。
ここに一人の人間が居る。多くの人と同じ人間が居る。少しばかり筆がたつ。死と向かい合う、自分自身の揺れ動く心の音を記しておこう。
自分自身を客観的に分析すれば、自然科学の研究者ではない。どうしても、人文科学的なストーリーを組み立てる、ストーリーメーカーでしかない。科学的事項を物語に空想するそんな人間だと思う。
「孤高」とか「在野」とかという言葉が好きで、少し斜めに構えて言えば、選択を求められる場合、常に困難なほうを選択してきた、と言うのだが、本当は単にそれが「かっこがいい」と思っただけで、基礎医学者として、進化学者として、生物学者として、名もない人生であった。そんな私の研究ともいえるほどではないのかもしれないが、基礎科学、進化、生物学の考察集である
面白みのないことを言えば、人が死した後には何も残らないもっとも残る必要もまたないのだろうが、私の近い人たちにだけ、そんな人生もあったのだと、残しておくのもまたおもしろそうである。これからは日暮に、知人の宗教家が言うには、一日一日を感謝する日暮、それが教えの極みであるらしい。
人生の多くが終わって、残り少ない期間を歩むことになったのだろう。過ぎ去った時間を見つめてみれば、それほどたいしてことも達成できず、失敗の多い人生であったように思う。ただその中で、人の悪口を言わない、人のせいにしない、逃げないだけは実行できたようである。
父は太平洋戦争に従軍し、南支で捕虜時代を入れて丸5年、彼の地で過ごした。実質四年の日々を命のやり取りの中で過ごした。
そんな時代を過ごした父は、全く戦争を語らない人であった。しかし、西宮球場での日本シリーズで、命のやり取りの中で生きた男の凄さをしった。
国旗掲揚国家斉唱、球場のすべての人は立ち上がった。しかし、父だけは立ち上がらなかった。ある時、政治家の靖国参拝が話題になった。お父さんは靖国に行かないの?私の質問に、死んだ戦友達は故郷に帰った。靖国にはいない、そう言った。田舎の町の教育委員長をして、日教組の方がたくさん自宅に来て、飯を食べていった。同じ、自宅の食堂で、ヤクザな漁師たちが、飯をたべていた。そして、彼は昭和天皇が大好きだった。
人に平等であり、すべての人にあまく、優しかった。僕は自分に甘いから、人にも甘くできる、と。僕は自分を許すから、他人を許すことができる、と。私は、幸せって?と、世界の偉人、宗教家、いろいろな人に質問したことがあった。色々な話を聞いた。でも、しっくりこなかった。ある日、父に聞いた。幸せって、何?と。幸せだと思えば、幸せだし、思わなければ不幸せ、僕はいつも幸せだ、と。私は、彼以上の、金儲けをして、社会的貢献をして、理論を組み立て、新しい開発をして…、でも、彼を超えれなかった。越えれないまま、逝った。その夜に、生まれて初めて、流れ星を見た。それは偶然であることはわかっている。しかし、それを、その事実を、笑って語れる人間になろう。全てを許し、全てに感謝し、何時も幸せだと、思える人間になるまで、死ねそうもない。
小学生の卒業時に「将来何になりたいか」という文集を書かされたことがった。50年も前のことだが鮮明に覚えている。
その時の将来の夢は「野球選手」と書いたのだが、本心は詩人だった。そう書くとあまりにも子供らしくないといわれたり、いろいろ聞かれそうなので、さし障りのない、ちょうど少年野球をやっていて、それなりに評価されていたので、野球選手になりたいと書いた。
高校野球を続けることに夢破れ、いやもともとあまり野球が好きでもなかったのだろうが、それからはひたすら本を読んだ。父と母の本を夜遅くまで読んだ。目が悪くなった。そして「哲学」を志そうと思った。しかし、父が「哲学や文学で飯を食うのは大変だ、医者か歯医者にとりあえずなれ、そして哲学や文学をやればいい。」と。
大学に入学して、ただ6年を過ごして歯科医師免許さえ取ればいい、最後までそう思っていた。
最初に各講座の概要の話があった。ある教授が血液の話をした。白血球数の成長値は、4000~7000、1万以上になると炎症性の疾患を疑う・・という話だった。いい加減な話だなあと、思った。
何の縁だか忘れた。大学1,2年に薬理学の佐藤教授のもとで、マウスの全身の臓器切片を作り、それを勉強した。なぜそうしたのか忘れた。
全身の解剖学、生理学の事項を覚えた。そしてもうだいぶ忘れたが、佐藤教授からどうせ覚えるなら英語で覚えろ、と言われた。
大学を卒業して35年以上が過ぎた。ただ、彷徨い続けた、何一つ達成できない、半生だった。そして61歳の春に、ガンに罹患した。最初は確かに精神的にこたえた。しかししばらくすると「これか」と気付いた。「死」というゴールが現実味を増してきた。昔から、何かないと動かなかった。性格なのだろう、人生もそのようだ。「死」がみえた。私らしい人生だと思う、何でもかんでも中途半端だった。最後の最後になり、面白くなってきた。生きる日々を謳う、そんなチャンスが現れた。さあ、想おう、謳おう、静かに明日に向かおう。
笑顔を、いつも笑顔を これからの日々を笑顔で生きて行こう 笑顔で一日に感謝し、日の出を迎えるそんな人生でありたい。そして妻に感謝しながらいつの日か人生を終えれば良いと。
ノーベル医学整理、そして物理学賞が日本人に、凄いものである。スマートサイエンス、僕の専門はスローサイエンス、世間的にも、研究的にもスローサイエンスは分が悪い。
答えが出ぬくい、目立ちもしない、答えは何年もかかる、でもそんな研究がほとんどであり、地道に世界に貢献している。それでいいのだろうと思う。
どうも一生貧乏で名もなく終わりそうである。それどころが一歩間違えば落ちぶれ、ぼろぼろになって人生を終えそうでもある。でもそう後悔はない、清くはなかったが、貧しく美しく
人体・医療にはいろいろな分野があり、小児の成長、頚部顎口腔系の構造、負荷と恒常性そして進化医学等々地味でもあるが、貢献度としては大きいと信じて進んでいる。自分自身のことでいえば、ガンと言う疾患で、終わりが見えないことがストレスと言えばストレスになる。しかし私の専門の一つが「負荷」であり、それはいいストレスのことである。ストレスには2つある。悪いストレスと言いストレス、通常は悪いストレスをストレスとして使うが、セリエ博士曰く「ストレスは人生のスパイスである」。言いストレスに帰ればそれもまた人生のプラスになる。CT画像診断の日である、ガンが大きくなっているか、小さくなっているか、大きくなればなるように、小さければ小さいように次のステップを用意して、それを楽しめば、それは負荷となってプラスに働く。抗がん剤をどう使うのか、免疫療法を今後どう対応するのか、そして新たな治療法をどうするのか、未来が見えないストレスを逆に楽しめば未来は楽しくなる。
免疫療法を始める。保険のきかない医療であるが、ガンと言う対象には本来は本堂である気がする。抗がん剤は色ものであり、どこかで間違えたのではと思う。抗がん剤を否定するのでもないのだが、分子標的薬のようなものが開発の基礎にはなりえたし、使い方次第では、それなりの効果を発揮する。しかし、あくまでも色ものである。外科か免疫療法が本来は正道なのだと思う。
安定したメンタリティー 心理・意識
強固なストラクチャー 構造性
に挟まれて メタボリズム 代謝と
ファンクション 機能性 がある
代謝は食であり呼吸であり
腸 免疫の一部もそれに含まれる
機能は自律神経系であり、筋力であり 免疫であり・・・・
人は安定したメンタリティーと
強固なストラクチャーの中で
よりよく食を摂り 呼吸をすることが必要であり
機能をあげて行くことが求められる
機能を上げることは それなりの「負荷」を与え
ることが必要である
メンタリティで重要なのは、群性と新奇性である。群れることが好き、そして好奇心であろう。強固なストラクチャーは「頚部顎口腔系」がの構築が基本となる。
ガンはこのシステムが崩れたときに発生したのだろう、それを再度構築する。それがガンを克服する基礎である。そのうえで治療行為がある。
矢沢栄吉のコマーシャルが流れている。「やりたいことをやる人生は楽しい」と。本気でやりたいことをやると、人生は本当に面白い。ただ、このコマーシャルの脚本を書いた人に言っておきたい。
本気でやりたいことをすれば、必ず人に迷惑をかける。特に妻には多大な迷惑をかける。そして迷惑がかかっていなければ、それは本当にやりたいことをやった人生ではない。
齢62歳 そしてステージⅣのがん。いつ死んでも後悔もないが、妻にだけは小さな幸せでいいから残してやれないかと、思考錯誤が続く。
これ以上迷惑をかけずに死んでいくことが、妻に迷惑をかけないことなのだろうが、また面白がって「ガン」と遊んでいる。ガンに対してやりたいようにやって、また妻に迷惑をかけている。結局天然に去るその時まで、激しい人生で、妻に迷惑をかけることになりそうだ。やりたいことをやる人生は、そうかっこいいものでもない
人類は「哲学する心」を持ち続けなければならない。私に間に合うかどうかは別にして、がんで死なない時代が来る。心臓病で血管疾患で死なない時代が来る。しかし、今のところ、生命は限界があるが、長寿社会をどうするのか、その前に人はどう生きどう死ぬのか、哲学の最も基本的な命題を思考することがより一層求められるのだろう。
もはや財も名もいらない、死を目の前に見つめるとき、生もまたいらない。どう生きるのか、目の前にある課題を一つ一つ解決し、そのための勉強を常に続け、前に向かい続けたい。いかに死ぬのかのほうが難しい、死ぬ時はガンの治療をやめればいいのだろうが、それほどの勇気も今の私にはない。神の御心のままに、ガン治療が効果がなく、死に逝く、ぐらいしかできそうにもない。武士道は死ぬことである、のは私には無理そうであり、所詮似非武士道しか持ちわせていない、また老衰のように衰え死ぬのも生意気にも矜持が許さない。中途半端な根性しかない私には、ガンの進行に生命の限りを任せるという、他人任せの今の状態が私には向いていそうである。
私の研究テーマ、先日中山勲先生に言われてのだが、「未病」であろう。病気をしない身体と生活を創造する、それが最終的なテーマでもあると言うことになる。
多くの病気もまた治癒する時代であり、私の様な未病にチャレンジする人間もいる。「しなない時代、死ねない時代」が来る。しかし人間は加齢とともに老化する。このスピードは調整できたとしてもそれをとめる事は出来ない。
その中で社会構造は大きな変化が生じるのだろう。文明と文化で構成される社会構造が大きく変わらざるを得ない。
存在」する意味
多くの死にかかわってきた。何千何万の死を見つめてきた。しかし自分のお癒しを考える事はなかった。ガンに罹患し、自らの「老い」そして「死」を見つめる機会を得た事は、大きなプレゼントであった。
ガンの治療は進む、私のガンも死との隣合わせではない時代がすぐそこに来ている。しかしその反面、いや故にというのか「老い」がより近くに焦点が合いだした。「老い」たくはない。
私は老いる事はない。介護という言葉はない。自分の矜持が許さない。自分で死を選択する。武士道とは「死は自らが決める」である。日本人らしく武士道を持って生きていきたい。
存在する事とは何か。身近にはまず妻の父が逝き、母が逝き、引き続き私の母が逝き、そして父が逝った。妹がガンになり、私が末期のガンになった。そして生きる事、死ぬことの意味を考える機会を得た。
私は今生きている、それは「存在」している事である。死ぬことにより「存在」はなくなる。存在はPresence それは「時」である。父が逝き、母が逝き、父達の時は存在しないが、私たちの時は流れ続けている。
ときには3つの要素がある。「総体性なるとき」と「個体性なるとき」そして総体性の時の中にある、あるいは一体化している「変化性のとき」がある。。個体性なるときは人間だけがもちえたときである。人間がいなければ、大宇宙には総体性な時と変化性なときしかなかった。
では時の始まりはあったのだろうか、変化性の時に於いては、時の始まりはあり、ゆえに時の終わりもある。総体性な時には始まりと終わりがあるとは、言えない。
その前に「変化性」とは何か。時に流れに有機的であろうと無機的であろうと、存在しそして変化をする、又は消滅をする、また新たに誕生する存在体をいう。その存在体自体にも時があり、だがそれは自己認識するものではなく、総体的なときと一体化している。人間が存在し個体性なるときがない時代に於いては、総体なるときがありその中に変化性の時があり、とうとうと流れていた。ある時点、ほんの近い時代までそれだけの時=存在の意味であった
生きること 死ぬこと ガンととも
7月16日 自分自身に「生」に対する執着心はそれほどはない。ガンを何が何でもクリアーしたいとも、生き抜きたいとも思わない。好きなことをして好きなように生きて、おそらくはというよりは確実に、妻以外の女性には相手にされなかっただろう、確実に離婚しただろうというほどに気ままに過ごしてきた。(生まれ変わったら妻と再度結婚するかと問われたら、僕にはそれ以外はない、と答える。いや、彼女が僕を選択するかどうかであり、僕には選択権もないのかもしれない。彼女が僕を選択しなければ、僕の辞書から「結婚」という文字はただ消える。愛していますかと問われたら、愛させていただいている、と答える、いたって謙虚でしかない)
ガンの罹患が分かった当初は、家族や会社のために何ができるか、何をしておくか、などと考えたが、今は考えも大きく変わった、恐らくは「為るようにしか為らない」のだろう。家族や会社に何ができるかなどくだらない、そしてされた側もたまらない、自由でなければ、そう思って生きて来たのだから、これからもそして残してゆく彼らにも自由であれ、と言い続けようと思う。
故に、闘病に気力等はいらない。なぜ今を生きるのかと問われれば、生きることが楽しい、面白い、と答えよう。体力をつけるという意味で、遠慮せずに食べることができる、BMIやメタボなど、気にしなくてもいい。体力のためにと言えば誰もが黙る。いろいろと動くことができる。運動のための言えば誰もが黙る。電車に乗り、徒歩で、いろいろな場所を見て歩く。そして治療自体もおもしろい。いろいろな意見があり、いろいろな開発が進み、でも結局は僕のフィールドにすべてが戻ってくる「いかに生まれいかに育ち、いかに生きるか」。
明日が来るのが楽しい、明日にはどうなっているのだろう、どう向き合い何をするのだろう。楽しみ、考え、実行する!そして楽しく食べて動く。
7月9日 免疫療法の説明を受けた。興味深い、やる価値もあるようだ。いろいろな療法がガンにはどんどんと出てきたいる感がする。医療とはそんなものだというのもわかる。30数歳のころ、直接は関係のない人生であったが、ガンの原因論がほぼ見つかろうとしていた時期を知っている。そのころも食にかかわっていたのだが、今ほど直接的ではなかった。
もちろんガンで死ぬ人も今も少なくはない。ガンに罹患する人は増加しているようでもある。長寿になったこと、ストレスが増えたこと、様々な複合要因なのだろう。今、研究中の子供のアレルギーも然りである、単純な要因ではなく、社会と個人の複雑に関連した複合要因なのであろう。それを単純に言えば、ガンであろうと、アレルギーであろうと、社会の変化と、言うしかない。
免疫もおもしろくなっている、同じ免疫でも過剰反応のアレルギーを考えるのと、免疫治療とでは違うもののように思えてしまう。しかし、故に免疫療法の話を聞くのもおもしろい。
現状の抗がん剤にしろ免疫治療にしろ 完全に治癒傾向を表すのは10%程度、基本は体力があるかどうかだと思える。知力だけではない、気力と知力も人間の基礎力として不可欠であると思う。免疫療法を見ると、効果を示すのは25%程度と記している。抗がん剤もそうなのだがこの数字は事実関係を示しているにしか過ぎない。統計とはそういうものである。客観的に数字のみを見つめることも必要である。数字上で表せば、「無」は「0」である。数字的には無は簡単に表現できる。しかし無を数字以外でイメージすることは難しい。同じようなことが統計には起こる。数字と実態は同一ではないことが多い。
私の場合抗がん剤治療は結構効果を示していると思える。おそらく免疫療法で完全にとはいかぬまでも、ある程度のレベルで安定化するように思う。そして時間稼ぎが十分可能に思う。なぜか、それは体力であろう。
6月25日 23日のCTでは前回の撮影からは大きく変化はない。左右に小さな影が2つと比較的大きなのが1つ、3月30日から、ほぼ3カ月だがそれほどの変わりはない。ここ5年がガン治療のピークを迎える治療法が開発されるのではないだろうか。人類もそろそろがんとの闘いに終わりを告げる時が来たようである。その後には今僕が手をつけている進化の急激な展開による様々な問題が出てくるのだろう。いつもだが、少し早すぎるのが僕の思考なのだろうか。故にお金にならない。その延長線上にある「口腔育成」そしてマウスピース矯正も早すぎたようでもある。離れた時、花が咲く。それでもちろんいいのだが、今回はそれが見れるかどうかは分からない。死してはなれるか、伝え終わってはなれるか、どちらにしろ、ガン治療が間に合うかどうかの綱渡りのような人生である。刺激があっていいのかもしれない。
6月18日 15日に退院し 3日目 最終の抗がん剤の点滴が9日、ちょうど一週間目、Mvacという抗がん剤の合剤の治療法だが結構体も参るようである。臨床の人たちの言う、抗がん剤は効かない、抗がん剤はよくないという話もそれなりに理解できる。この薬を体力のない状態の患者に使えば逆効果になるだろう。抗がん剤、放射線という流れは止める方向で考えるのがいいのだろうとおもう。そして、そう遠くない将来にその治療法が開発されるのだろう。私が間に合うかどうかは別にして、ガンが克服される時代が来そうな実感的な予感がある。
私は何をしても結局は何をしても飽きるから、それほど生活自体に目標もしたいこともないので、まあ、この世をおさらばするのもまたいいのだろうと、思っているし、もがきながら生き続けるのもおもしろいのかとも思うし、ただ、老いを晒して生きることだけは自分のプライドが許さない、それだけは確かである。
6月5日 ガンという疾患自体に目を向けて、そのメカニズムと成長のメカニズムとの相関を考える穂も面白そうでもある。朝、パートで勤めていた女性に偶然面談した。乳がんでの治療中である。抗がん剤治療を先行し、先日摘出したそうである。抗がん剤は相当きつかったとの話である。基本はやはり体力、その体力を現代人はそのレベルが相当低下しているのだろう。そこに私の研究のテーマがありそうである。ガンそのものの治療は、もう私が入り込む余地もないだろうが、見病である事、元気である事の意味に、何らかのまた面白い引っかかりがありそうでもある。
抗がん剤には二つの大きな問題があった。新しい治療法の流れが始まっている中では、過去形で「あった」という事にしよう。一つは副作用そして一つは効果が限定的である点である。最後は耐性の問題である。
①副作用 ②効果の限定性 ③耐性 の3点である。この3点を少しずつ思考をくりかえしてみたい。
5月20日 ガンや免疫の研究は、今から始めても出遅れている。今はまだ、大向こう受けはしないが「成長」そして健康医学が、トップランナーとして走れる分野なのだろう。ガンは間もなく一つのゴールを迎えるように思う、そこに参加の余地は残されていないようである。
5月19日 抗がん剤8クール目へ
-元気であるー
昨日5月18日入院 19日から抗がん剤治療を始める。抗がん剤の身体への副作用、俗にいう表現的な副作用ではなく身体全体を衰退させるという副作用については、急激に影響が及ぶ人や徐々に影響される人などに分かれるように思う。
自分自身は炎症反応を一つのマーカーにしているが、前回の退院時から今回も0.2程度、おそらく安定した状態なのだろう。ガンによる組織破壊があまり進んでいない状態、共存できていると考えている。
5月13日 アメリカのFDAで以前話題になった近赤外線によるガン治療が本格的に認可された。治験に入りそいう遠くない将来に臨床適用されるだろう。そして日本でも小野薬品など世界でいくつかの薬品会社が開発したらしい、免疫細胞の活性阻害を阻害する薬が臨床応用したらしい。ガンはそう遠くない将来解決されそうだと、スタッフに話したが、現実になろうとしている。もう数年の問題だろうが、現時点でも私に効果があるような気がする。世の中では餅屋は餅屋でその分野分野に優秀な人間が多くいる。ガンにウイングを伸ばしてみたら・・・と少し欲張った気持もなくはなかったが、しょせん付け刃、自分の専門は専門で一本道を走るほうがいいと思い知らされた(笑)
そうなると、私たちは、人生そして社会というものを、冷静に考える事が必要になる。生物としての私たち、人間としての私たち、そして群れとしての人間、生物、自然との折り合い、有限な資源、遺伝と進化、今本気で考える事が求められている。
5月12日 今の時点で、ガンが身体を蝕んでいるのか、共存しているのかは分からない。いたって元気である。確かに抗がん剤の副作用としての疲労感はあるが、食欲はいたって旺盛でもある。5月19日から抗がん剤治療のサードラインの2クール目を始める。気持の中では開き直っているというのか、必ず転移がんが見つかって(昨年の夏だが)5年以上は生きるという強い意志があり、抗がん剤がどうのこうのというものでもなく、聞かなければ効かなくてもいいし、抗がん剤がなくとも生き抜いて見せる。非治療でも、免疫療法などを組み合わせて5~10年は生きるしただそれ以上生きて不細工な姿は見せたくないのでそれぐらいでいいと思っている。ただそれだけはきっちりと生きていようと思う。そのためには食べること、生きる強い意欲、そして思考する力と適切な運動が不可欠に思う。
5月5日 医学は科学的に考える事が難しい分野である。科学的に考えると矛盾が多く出てくる。大学の恩師佐藤精一先生がキリスト教の洗礼を受けた時、私は反発した。科学者が宗教に走る事を。佐藤先生は私の反発に笑っていた。彼は科学者ではなく医学者であった。医学者が宗教に生きる事はよくわかる年齢になった。科学は1+1=2である。しかし、医学の答えはいくつもある。それなりの答えは「1」なのだが、見方におれば答えは無限であるともいえる。
今日採血をする。連休明けの昨年5月8日にこの大学病院を訪れた。そして腎盂ガンであることが判明した。摘出の手術を経て抗がん剤治療を7クール目、最初のGC療法と言われる薬を早くやめすぎたように今になると思うが、ただ結果としておそらくそれもOKになるように思う。なぜかと言われるとそれなりに意味があるのだが、おそらく正解の様に思う。
平均値とは違う風変わりな僕である。平均的な面が多くあるのに、なぜか平均値から大きく外れる事がある。最初の抗がん剤治療が3.5クールで終わり次に行った。しかし理屈としては継続しておくほうが短期的な効果としては正解であったように思う。途中で薬を変えた。結構体にはきつかった。術者側の意見とは大きく違った。そして本来はGC療法が効果がない場合行うべきではないと言われているMVACという多剤療法を今始めた。ある程度の時期が来たらなぜこの事が正解なのかを説明してみたいと思う。
5.1 白血球数は3400ほど、副作用として血液の減少が問題の様である。前駆細胞を増やすサイトカインが新たに開発されているらしい。次回からそれを投与するとすれば、外出をしながらの抗がん剤治療が可能になる。
抗がん剤には賛否いろいろあるが、がん治療の多くに利用されている。特に私のような病期のⅣ、言い方を変えれば末期にはそれしかないのだろう。
末期という言葉は何を指すのだろう、これもまた難しい。概念的な言葉の意味は難しい。CRPは0.1、この値は結構指標になるように思う。
2015.4.29 抗がん剤の新しい療法の1クールが終わった。なんとなくそれなりに効果を示しているように感じる。相変わらず元気であるし、CRP値もここ2回は0.5と多少高いがそれほどの高さでもない状態を示している。抗がん剤の効果があれば高い事も推測できる。今朝はウオーキングと筋トレ、以前に比べればそれほど高いレベルでもないが、それなりに体力の縮小を防いでくれる。体力とは 食に休養に適度な運動と説明されるものだろう。
気力は「生命への要求≒社会力-群れる力等々」そして智恵力が、人間の適応力の基本であるならば、生命力の基本であり、治癒力でもある。
2015.4.26 ここ数日 毎朝1.5㎞ほど、病院の周りを歩く。そして筋トレを少しして、ビタミンCを十分に取る、そうしながら次の抗がん剤治療に向かう。白血球の減少と血小板の減少以外の副作用は少し脱毛はあるがさしたるものではない。外に出る事も問題にならなくなるだろう。
薬剤の耐性とは何なのだろうか?生物の「適応性」で片付ける事ができるのだろうか?
その前に抗がん剤でよく言われる事は効果が少ない例があるということであり、私自身も今回のセカンドラインの俗に言う保険適応のGT療法は効果がなかったと評価されている。
4月24日 昨日で白血球数は3650 CRPは少し高い1.1 前回は0.3.
CRPが少し高い。今週の2回目の抗がん剤は飛ばしたので、来週は予定通り行うことになる。今朝からトレーニングを始める ウオーキングを1.5Km、後はスクワット、腹筋、腕立て等々を少しずつ始める。
ヒトの適応力の高さとは何か、智力・気力・体力である。詳細は進化のページで考える。体力は持久力の高さということは、食と適度な運動が必要である。気力は生きる意欲、群れる気持ち。そして最も重要なものは智力、人間しかもたない力である。智力は考える力である。アメリカ海軍の英雄ストックデール中将は7年間ベトナム戦争で捕虜となった。彼は7年間に及ぶ過酷な捕虜生活から生還した。彼は言う、悲観的でもなく楽観的でもなく現実的であることが生き抜けた要因である。「悲観主義者は風向きが悪いと不平を言う、楽観主義者は風向きが変わるのを待つ、しかし、現実主義者は帆を調整して風向きに立ち向かう」現実をしっかり受け止めながら、思考しその状況に立ち向かう。「なぜ私だけがこんなことになったのかと悲観主義者は想う,楽観主義者は何とかなるさと思う、しかし現実主義者は、現実の状況を思考分析し、それに立ち向かう知恵を持って、気力と体力を高め生き抜く」
4月20日ある医者が、「夜が怖い」とテレビで話していた。 彼もガンに罹患し、抗がん剤治療を受けている。彼は、地域の医療に長年尽力し、地域の人たちから頼られて生きてきたという。
僕は全くにその感覚はなくなっている。僕は明日が楽しそうである。それには死も含まれる。科学者の科学者たるゆえんは「好奇心」であり、お医者さんたちとは違う。そして、進化に携わる人間は、生命を、自分の生命を客観的に眺め、理解する。そのテレビでは「講演中に倒れたら格好いい」というセリフがあった。その通りだと思う。明日に向かってどんどんと生きる。今を楽しみ生きる。それで、明日に何があろうと、それもまたおもしろい。60年が人としての一つの区切という、故事は良くできている。あとは、残された時間をどのようにして生きるかであろう。5年か10年か15年か、何年かは分からない。
「いかにして死ぬのか」それは、日々の中で倒れていく、そんな生き方をしよう。講演中に壇上で倒れるのもいい、いつの日か人は逝く、特にがんに罹患した私はその危険性は高いが、いい死に方ができると思う。日々の生活の中で、一瞬にして倒れてそして逝く、多くの人が望む死に方を実践して見せたいと思う。
4月11日 今日で抗がん剤とガンの、第7クール、第一回の戦いが終わるだろう。シスプラチン系のこの感覚は慣れた。前回のGTではぐったりと来たが、今回はファーストステージと同じで、ぐったりではなく、体にきた、持続力がない、という感じである。第1クールで自宅に変えっつたとき、階段をkじゃけ上がった時に感じた持続感のなさである。
10年を生きるその思考は始まったばかりである。急ぐ必要もない、急がなくても体力はまだまだ大丈夫だ。現状はこのような病院と仕事の生活も充実している。副作用時のセミナーの出席が心配でもあるが、うまくクリアーできるだろう。自宅で一人の気ままな生活も面白いが、少し制約のある病室での生活も慣れるといいもので、スパイスが効く。人間には常に「スパイス」=負荷=ロードが必要で、負荷を常に掛けることにより成長し続ける。ステージⅣの状態から10年は生きいるという、科学的な根拠は何か?
悪性新生物がただ成長し続けるということが問題となる。ガン細胞が、ある程度の進行度において、抗がん剤等をもってして、消失する可能性は今のレベルでは大変低い。成長を抑える、そして共生することは基本的に可能なのだろう。なぜ可能なのか?
4月10日 少しだが浮腫が出ていて、体重が増加している。シスプラチンの場合は以前もこの程度の体重の増加はあった。倦怠感はどうしてもあるが、ステロイドを入れると回復する。やはり、抗がん剤治療は体力・気力が基本にあるように改めて思う。今回の抗がん剤は初心に帰るでもないが、腎盂がんには初めて適用された多剤適用だが、このほうが効果があるようになんとはなしなのだが、感じている。肺に転移すると、おそらく、腎盂=上皮がんの傾向を持ちながらも、エピジェニックに肺の環境に影響されてくるので、転移ガンは対処が難しいともいえるのだろう。しかし、何とはなくなのだがそれがある意味転移ガンの弱点であるようにも思う。最後の抗がん剤を終えて、36時間一日半、あと36時間程度が抗癌剤とがんとの闘いのようである。
4月7日 朝
1ヵ月半ぶりの病室である。12時昼食、6次夕食、9時就寝 夜間に1度程度起きて排尿そして5時過ぎに起床し、6時に朝食。
生活リズムとしては病院生活が合っている。共同生活というストレスはどうしてもあるのだろうが、気ままに過ごすことで解消できる。気に入らなければ
病院を移ればいい。今回の2カ月で、この病院での治療も最後になるかもしれない。少し景色に飽きてきた感がある。
10年を生き抜く、それが僕のテーマであり、目的である。何が何でも生き生きて10年をめざそう。
ガンが見つかりほぼ1年が過ぎた。腎臓の摘出から、肺への転移、そして抗がん剤治療、ファーストレインが4カ月、セカンドラインが2カ月、明確にセカンドラインは効果がなかったが、ファーストラインは効果があった。ファーストレインをもう少し継続するほうがよかった感じもする。今回はそのファーストラインに近いまたは同じ薬剤を含む、古くからある療法を2カ月行う。体力も正常に近く戻り、今回の2カ月の治療はそれなりに楽しみでもある。それでいろいろなことが見えてきそうでもある。効果がなければ出どうするか、新しい発想で、この病院から離れて、違う動きをしてみるのもいい。それもそれなりに楽しみである。色々な立場や環境での楽しみ方があり、僕は僕なりの立場と環境で、がんを楽しむ。お金だけはこれまでは縁がなかったが
七難八苦いろいろあった。ただ、それぞれの局面で楽しんできた。そして楽しめた。とんでもない苦しい時期もあったし、死を考えた時期もあったが、それもそれなりに今となれば楽しめたと思う。楽しむことだ、生きることを、今という時間を。
4月3日
3月30日に再度胸部のCTを撮影、小さな影が2つばかり増え、以前からあるガンが2センチ近くになっているとの画像診断だった。
体調はすこぶる体調である。食事、寝る事等々により体力も相当回復した。腎盂癌に最も標準的な抗がん剤治療を受けることにした。どう転移癌をクリアーして行くのか?治療法としては、抗がん剤しか思いつかない。しかし、もう一つの手は免疫力におる改善である。抗がん剤と免疫力は、原則相反するのだろう。それをいかに相関させるのか、そこに新しい治療法があるように思う。確かに抗がん剤の効果は低い、しかし理論的には効果がないことはない。抗がん剤におけるストレスを軽減しながら体力をつけ、がんに相対する方法を自らの体で見つけてみたいと。来週月曜日にまた入院する。今回は原則として2カ月連続の入院になるが、体力そして仕事、生業いろいろな要素を組み合わせながら快適な時間を過ごしてみたい。10年を生きる、10年後は72歳、どのような癌でも10年は生きることができる、その一つの試金石でもある。
3月28日
新しい挑戦のために、10年の時間を全力でかけることが目的になった。10年の時間は、通常の治療では難しいだろう。抗がん剤では数年が限界であり二桁の年数を生き抜けることは考えにくい。自らの進退を鍛え、免疫機能を高め、体力を十二分に高めて生き抜くことが必要であり、受け身の治療ではなく、能動的な挑戦がその基本となるのだろう。
そして2週間ほど前から、いろいろな試みを始めた。
野菜を中心とした食事、ココナッツオイル、青汁、炭水化物を少なめに
そしてビタミンCを5000mg等々
体力をつけるために 運動は欠かせない、そのためには膝を治す
そして免疫力をつけるために来週から「鍼灸」、ひざを治し姿勢を治すための「整体」も始めようと思う。
30日に胸部CTを取る、セカンドラインが利かなかった右肺のガンはどう変化しているのか、小さくなるのもよし、大きくなるのもよし、今は10年を生きるために、全力で思考する。私は切った張ったは嫌いだから、医者にはならず歯医者になり、それも臨床から食いぶちを得るとき以外は郷里を置いた。だから治療の腕は基本的にはそれほどでもないし、知らない。しかし考えることは得意だから、考えよう。どうしたら10年を生き抜けるのか?
それはとりあえずは 1.規則正しい生活=睡眠と生活習慣
2.バランスのとれた食事
3.免疫力を高める行動
4.体力をつける適度な運動
5.ビタミンCなどの摂取 を始める
そして 必要に応じて ① 手術 ②放射線 ③ 抗がん剤 の標準的な治療を最小限に組み合わせる。さあ、10年を生き抜くために多くの命題がある、しかしこのガンに対する思考もまた心をうきうきさせてくれる。
3月22日
昨日は博多に、行き帰りの新幹線で、うとうとしながら想いを巡らした。
ガンの発生メカニズムはほぼわかってきた。遺伝子のスイッチミスがほぼ正解なのだろう。成長期のスイッチのレベルの高低についての検証が私の今のメインの仕事だが、スイッチのミスが何らかのストレスによって生じる、これががんの発生の基本であるとされる。
「がん細胞は、正常な細胞の遺伝子に2個から10個程度の傷がつくことにより、発生し、これらの遺伝子の傷は一度に誘発されるわけではなく、長い間に徐々に誘発されるということもわかっている。正常からがんに向かってだんだんと進むことから、「多段階発がん」と称される。
正常な細胞に決まった異常が起こると、その細胞は増殖し、そこに第二の異常が起こると、さらに早く増殖するようになり、異常の積み重ねにより、がん細胞が完成すると言われている。
がん遺伝子の変化は、特定の蛋白質の働きを異常に強めることにより、がんにつながる増殖異常を引き起こす。したがって、その蛋白質の作用をうまく抑えるような薬を見つければ、細胞ががん化することを防いだり、すでにできているがんの増殖を抑えたりすることができる。
がん遺伝子がアクセルとすると、そのブレーキにあたる遺伝子が、がん抑制遺伝子であり、がん抑制遺伝子は細胞の増殖を抑制したり、細胞のDNAに生じた傷を修復したり、細胞にアポトーシス(細胞死)を誘導したりする働きをする。DNAの傷が蓄積するとがん大変ですので、異常を感知して、その細胞に細胞死を誘導することも必要となるす。このように、がん抑制遺伝子はブレーキの働きをしていると考えられている。
遺伝子の傷は、その突然変異によるものばかりであると思われてきたが、、遺伝子突然変異以外にも、細胞が分裂しても薄まることなく、新しくできた細胞に伝達される異常があることがわかってきた。それがエピジェネティックな変異で、具体的には、「DNAメチル化」と「ヒストン修飾」の変化で特に、DNAメチル化の変化はヒトがんの多くで認められ、多段階発がんのステップとして関与している場合もあることが知られている」
というのが多くの解説書に書かれている内容だろう。それは分子生物学的なレベルでの話である、より実際になると、スイッチミスが重なり、ガンになり、ただ多くのスイッチミスは身体の防御機能がそれを消失させる、抑制遺伝子もあるし異物に対する免疫システムもある。それを逃れたがん細胞が増大化する。
私自身を考えると、成り立ちはそれでいいとして、遠隔転移がある、今のところ肺に限定している。上行静脈で肺に転移し、肺によりフィルターされ転移して発育した状態なのだろう。最後の画像診断での大きさは1センチ強、2か月前からほぼ倍近くに増大化している。その間のセカンドラインの抗がん剤は効いていない。感覚的には、異常に体力が奪われた感がある。薬剤自体は最初の抗がん剤よりは副作用等は少ないとされているが、個体差があるのだろうか、私には大変きつい薬剤であった。
そしてガンが見つかりほぼ1年の時間が経過した。原発部位である腎臓は摘出した。そして抗がん剤治療をする前に、肺への小さな転移が見つかる。そして抗がん剤治療でそのがんは消えるた、しかし、新しい小さな影が見つかり、セカンドラインに入る、しかしセカンドラインは相当体力を消耗し、抗がんの効果はなかった。最後の抗がん剤の投与からほぼ1カ月半、そして退院からちょうど1カ月が経過している。今朝6キロほどをウオーキング、ひざはまだ痛いが体力はだいぶ帰ってきている。
さてこれからどうするのか、標準的に考えられることは抗がん剤の治療でサードラインを設定することである。しかしその効果は、やってみなければわからない。薬剤自体では体力の消耗も激しいし、正常細胞、免疫系を含むシステムも攻撃する。主治医任せにする段階でもなくなった、自分のこれまでの知識を総動員して考察しなければならない。
抗がん剤はどうしても体力を著しく消耗する、30日に胸部CTを撮影するがその画像状況と今月初めの画像の変化により考えることになるだろう。
セカンドオピニオンも必要になるかもしれない。
3月17日
Beam onによる一酸化窒素の産出でのがん治療がどうなるのか、等々を思いながら朝、肺にBeam onを5分ずつの照射を金曜日から始めている。今日で5日目である。膝は比較的快調である。長距離をウオーキングするとどうしても形態的に痛みはあるが、ガンなどは話が違う。一酸化窒素には免疫系への貢献として白血球なども産出し病原菌やガン細胞に対処するメカニズムがあるとのこと。また血流を良くし、もちろんガンの血流も良くなるのだが、それ以上に正常細胞の血流により、正常細胞の活性を高めることは、その不要な細胞を除去する力が働くのだと思っている。
あと2週間ほどで一度胸部CTを撮影予定だが、楽しみである。これはきっと効果を示していると思う。もちろんそれだけではなく、朝の運動や、食事、サプリメントなどの効果もあるのだろうが。
3月15日
根本的な解決にはならないが、ひざの日常的な痛みは、Beam onで劇的に消失した。違和感はもちろん形態の変化の問題だからあるのだろうが、これについては右側で記述するが、麻酔ブロックの数倍は効果がある。灯台下暗しで、今まであまり気にしなかったのだが、NBCの田中会長の来院にて改めてBeam onを自身に施術するとその高い効果にはおどろだった。ついでに一酸化窒素について、以前の自分のセミナーの資料を見ていると、免疫系への効果やガンに対する効果などが文献などとともに残っており、これはいけるとの、訳の分からない予感。
一昨日より肺に照射を開始。これは効きそうだ。もちろん誰にでも聞くというものでもないのだろう。もちろん金精機外線だけで、効果が出るなど、マジックではないのだから、体力や気力、心理、いろいろな条件が絡み合い、効果を見せるのだろうが、私には確実に効きそうな気がする。そのためには必要なのは気力と体力、それがすべての前提に思う。何が何でも生き抜いて見せる。もちろん論理的に感知などは考えられないが、ともに生きることは確実に可能に思う。世の中には色々とおもしろいことがあるものだ。本当に身近にこんな装置上がるのを忘れていた。面白い。
3月10日
昨日午後にCT画像の説明を受けに外来に、本音としてはよくわからない。前回新しい影があるという話が画面に向かって右側側だったが、左側の肺の話になっていた。CTは自分の時代にはなかったからどう見るのか、よくわからない。左側は以前の消失したというがんの話だったのだが。角度の違いもありそうだ。間質性肺炎の疑いということでもあったが、肺活量も通常で、逆に人並み以上に4200だった。よくわからない、ガンは難しい、少しずつ勉強もしたいが。
と言いつつも、ガンに神経を使うのも飽きた。あと何年かはもういい、生きれるだけ生きよう、10年15年、20年は言い過ぎかもしれないが、目の前の仕事をクリアーしてゆこう。あと何年生きて、何をする…、と考えるのに急に面倒になった。しっかりと生活をして、しっかりと仕事をして、生きるだけ生きて、神の御心のままに天然に去ろう、と思う。明日死ぬのもよし、100歳に死ぬのもよし、その時その時を全力で生きよう。
3月9日 6回目の抗がん剤、5回目からはセカンドラインの抗がん剤治療であった。通常の知識では、手術後転移がんが現れるのが早い、耐性ガンが出現するのが早い、ということになるのだろうが、新生物は、そう簡単に判断できるものではないようにも思う。
成長のスイッチが次々に入りながら成長をする。そのスイッチにはレベルがあり、はいらない場合は疾病と判断される。私の専門はスイッチが入った場合のレベルの問題である。成長環境が成長にどう影響を与えるのか、成長のレベルにどう関連するのか、ということになるのだろうが、過度になることは比較的少ない、生物には生物には、過度にならない基本的な要素がある。それはそうとして、成長時ではなく、成長後に細胞が変化し続けることを恒常性という。成長の様相と少し違うのだが、基本はよく似ている。ここでスイッチが間違って入り、異質な細胞ができると、これは新生物と呼ばれる。これが成長すると悪性の場合、ガンになる。通常スイッチが正常に入ることは相当保守的なのだが、たまにスイッチが正常に入らない場合がある。これに自己免疫が対抗するシステムもある。正常にスイッチが入らない原因は「ストレス」である。どのようなストレスかは個別性がある、物理的、科学的、心理的ストレスが関連する。ガンの場合は成長という機能だけが極めて強く残っている状態にある。それ以外のその細胞が持つ恒常性における機能性は喪失している。そしてこの中の一部の細胞が、血液・リンパの解剖学的航路に乗って移動し、リガンドの場所で成長を開始するのが転移である。今日CTの画像検査を行う。
3月5日
常に「死」に対する意識がある。死自体を恐れるということはない。生きてゆく過程には目的と目標を設定する。その設定に常に死を意識している、という意味である。ガンが発覚後、手術を受け、転移がんが見つかり、抗がん剤治療をした、短い時間での動きであり、通常はあまり良くない状況だというのだろうが、1年が経過して、この土曜日に再度画像診断を受ける。
本音でいえば、転移がんは消失しているように思うが、外れると厭なので、残っている場合のことを想定している。2クールごとの投薬、問題は体力の回復をどうするか、抗がん剤はこれに尽きるように思う。「耐性」の問題も同様な気がする。薬はある一定以上がないと耐性ができる、体力がないとある一定量以下程度を継続する、そうすると耐性ができる。体力の問題になる。今後の抗がん剤のスケジュールをどうするか、抗がん剤をやめる気はない、薬理が大学の最初の出会いの場であった思い出があり、何らかの縁だろう、抗がん剤ととことん付き合ってみたいと思っている。しかし、体力を優先しないと、抗がん剤に負けるし、耐性もできる。体力はどうすればいいのか、食べることである、そして適切な負荷を身体に与えること、朝の2キロ程度の散歩なのだがその程度でも不可欠の運動である。そして食べる、食べる、人間は食べることに尽きる。
4月には1年になる。1年は長くもあり短くもあった。人生としては長かった、治療としては短かった。そして1年が経過して、石にかじり付いても2年は生きれる自信がついた。そして動けなくなって半年がプラス、なにやかやで3年は生き残れるだろう。か掘るさんが60歳まであと2年と少しそのぐらいは何とかなるだろうし、その期間で仕事も軌道に乗せる。後はなるようでいい、天然に帰るもいいし、適当に生きるもいい。もっともっと面白おかしく生きるのもまたいい。
3月2日
春の訪れである。春の終わりにがんがわかり、まあ季節で言えば一年がたったことになる。ネットなどで見ると、また成書でもそうだが5年生存率というのがある、1年生存もあれば2年生存もある、しかしどこからをいうのだろうか。手術後なのか、抗がん剤治療後なのか?よくわからない。
これから5年~10年で相当がん治療も変わるように思えるが、現時点では、摘出手術、抗がん剤、放射線の3つの治療以外にないのも事実である。治療法としては初期段階ともいえる。どんな失敗も同じようなものであり、初期から始まる。近頃実感するのだが、現時点ではこの3つの治療しかないし、この3つの治療ががんの治療に最も適しているように思う。しかし、どの疾患における治療も同じなのだろうが、初期の治療法は身体への負担が大きい。故に体力勝負の面が大きい。ガン以外の疾患は、体力があればり患しにくい、しかし、ガンは発病メカニズムが違う、体力に関係なく罹患する。しかし、その後の治療では体力勝負になる。初期治療はすべて同じような歴史を持つようである。では、体力とは何か?の命題になるとわからないというのが正直なところである。
2月25日
抗がん剤ってなんだろう、何回も記してと思うけれども。そのメカニズムだけを見ていると、正常細胞よりもがん細胞によく聞くはずであるが、比較の問題であり正常細胞もまた痛めつける。それもメカニズムとしてよくわかる。
薬にはよく聞く聞かないというのがある。どの様な薬にもよく見られる現象である。薬は違わない、受け手が違うだけである。イメージ的なのだが、抗生物質を多く投与して来た事から、水の流れに例えると、水の流れが激しい場所に抗生物質を流すと、それは自由に活動し広がり、水の流れに乗るように思う、淀みのある流れの悪いところでは抗生物質も淀み、活動しないような、そんなイメージを持つ。もともと元気な人、もともと体力のある人、もともと気楽に生きている人、そんな人が抗がん剤もよく聞くし、がんであることを自覚して、無治療を選択したとしてもそれなりの意義を見せてくれる人のように思える。 ガンに立ち向かうには、結局は体力・気力であるように思う。では何が対局で・気力なのか、よくわからない。ただ体力・気力が満ちていれば、ダイナミックな水の流れを作り出す。
がんになる原因、がんになってからの身体状態、二つは分けて考える方がいいのかもしれないし、同じ流れで考える方がいいのかもしれないが、ここではとりあえず分けて考えてみたい。
2月23日坂東三津五郎が死去した。膵ガンから転移肺癌が昨年の9月に発症し、今年1月インフルエンザいを発病し、昨日死に至ったという。私と同じ経過である、9月に転移肺癌が見つかった、そして抗がん剤治療を4クールして、そのガンは消失してが、また小さな影が見つかり、セカンドラインと抗がん剤治療では呼ぶ、新しく選択された抗がん剤治療をして今に至っている。どうなったかは3月に入りCTの画像で判定される。ここまでくればそれほど大したことでもない。ほぼ1年という年月が経ち、ガンとの生活にも慣れてきた。テレビでむ治療を選択して、5年まだ普通の生活を続ける乳がんの女性のテレビを見た。彼女は生きる事に未練もなく、堂々と死を選択している強さがある。その強さが彼女をまだまだ生きさせるのだろう。
私はすこぶる元気である。もちろん副作用もある。しかし、毎朝、2キロは軽くウオーキングをしている。仕事、生きることへの意欲は、私以上にその女性以上に、彼は持っていたのだろう。何が違うのだろうか、難しい命題である。
抗がん剤治療で言うファーストライン、そしてセカンドライン計6クールの治療を終えて退院した。約半年をかけた治療であった。一先ず休息をする。適切な運動と筋トレによる体力を作る。初日 6時起床 芦屋川沿いを川下に向かいスロージョッキング
朝のジョキング →ホノルルマラソン
筋トレ
糖分を減らし ケトン体を摂取し、80Kgを切る体重を維持する
週に2回程度は、温泉で体を休める
ビタミンCを2000㍉/日
3月からは本格的に仕事を稼働し始める。そしてガンといかに折り合いをつけて生きるのか、抗がん剤も良いだろう、短期の手術も良いだろう、高額な放射線治療も良いだろう、さあ、10年生きて見せよう、
「SAVE the CANCER ! Let's enjoy a life」
私は臨床家ではない、単に在野の一生物学者でしかない。故にガンについて臨床的な事項は何も知らない。経験ある臨床家にいろいろ教えてもらいながら、最後は「生物学者」として判断し、10年を生きて行く。
②1年が経過して
腎臓の摘出後抗がん剤治療を続けている。クール数でいえば7回目が終わり 8回目に入る。1クールがほぼ1カ月だから7か月が終わった。体調はどうかと言われると、すこぶる快調である。確かに体力というもの、持久力力と言い換える方がいいのかもしれないが、それは抗がん剤を投与すると相当落ちる。
先日、アメリカのFDAが新しいがん治療法を認可したと新聞に報じられた。以前話題になった抗体をガン細胞に付着させ、近赤外線で抗体を活性化させてガン細胞を破滅させる方法である。おそらく、うまくいくのだろうと思う。今後この10年、ガンに対する夢の治療法が開発されてくるのだろうとの予感がある。現状の方法はステージによりいろいろあるのだが、問題は僕のようなステージⅢからⅣ、ステージⅠ,Ⅱは現状の治療法でも治癒率は高い、しかしⅢⅣになると、治癒という言葉はなくなり、共存になる。そして致死率は異常に高くなる。
5年生存率は、罹患部位により変わるが、僕の腎盂がんなどは10数%程度という報告が多い。ただこの報告もわかりにくい。分かりにくいのだが、数字だけが一人で走りだす、すると、ガンのステージが高いとイコール死に結び付ける。また、日本人の二人に一人ががんにり患し3人に一人がガンが原因で死亡するというと、不治の病のような感覚にとらわれる。特にステージが高いとほぼ死という誤解が生じる。そして抗がん剤は使うべきではない…、ガンは放置しろ…ガンには代替医療等々の議論が活発化する。基礎医学は自然科学なのだが、臨床医学になると急に人文科学的に傾く。少し冷静にガンを考えておく必要がある。ここ10年でガンに対する治療法は一気に高まりを迎える時期にあるように感じる。そのために、今冷静にガンの治療に対する基本的な事項を論理的に構築しておかねばならないように思う、そうしなければ、これからの優秀な研究者たちの努力が、無駄になるように思えてならない。
1.生きることとは
①はじめに
ちょうど1年ほど前に、腎盂尿管がんであることを血尿から知った。リンパ節転移もCTから見ることができた。腎盂尿管がんの標準的な治療は摘出である。その形態状腎盂がんが治癒することは考えにくい。4月に血尿が出て、肺に別物の扁平上皮がんがあることもわかり、取り急ぎ7月に摘出手術、それで一息つけるかと思うと8月末には、肺へのメタ、1㎝ほどの転移がんが見つかった。5月末のPet撮影ではなかったので3か月ほどで1センチほどになっている。おそらくその時点では数ミリ、Petでは見れない大きさが3カ月で1センチに急激に成長したのだろう。これで病期は確実にⅣになり、言い換えれば末期とも言える状態になった。8月より抗がん剤治療を始めた。そしてⅣクール、年末になりその転移がんはも従来の扁平上皮がんも消失していた。しかし、GC療法では効果がない異なるメカニズムを持つがんがいるのだろう、肺に5ミリ弱の小さな影が一つ見つかった。CTで確認できる最小の大きさの陰であり、その外形をみると転移がんのように見える。年明けとともに、抗がん剤のセカンドラインでの抗がん剤治療を2クールが終わった。そしてCTを撮影した。
2ヶ月後のCT画像では空洞の壊死を呈しながらほぼ年末に7ミリ程度であったものが、倍程度に拡大している。もちろん一方向の撮影になるので3D上の拡大はわからない、と。形態は二つにくびれ、その二つの中心が空洞化している。セカンドラインの抗がん剤は効果がなかったのだろうとの説明になったが、前回年始に説明があった部位とは違う。
ガン治療自体がそう長い歴史があるわけではない。故によくわからないということが多い。それを前提にして、約1年ほど前に腎盂尿管がんが分かり、摘出手術そして肺への転移、それに対する抗がん剤治療がセカンドラインへ、1年もたたない中での動きであった。あわただし一年が終わり、そして、今、たばこをやめ、早寝早起き、そしてビタミンCサプリメントに野菜中心で、炭水化物を減らした食生活、元気である。抗がん剤ファーストラインが4クール、セカンドラインが2クール、抗がん剤による体力の衰えは確かにあるが、回復基調にある。すこぶる元気であり、ガンも説明によると、転移肺がんが一つが増大化傾向にあるが、他には問題は見られないという。僕には僕しかできないものがあり、多くの子供が僕にそれを求めている。自分のことはあまり構っている時間的な余裕はない。ガンはだれかが対処していくのだろう、僕は僕なりに一生物学者のガンへのアプローチ、ガンとともに生きる自分自身の問題として残しておこうと思う。
「病は患者自身が治す、医療はそのお手伝いをするだけである」そんな話を聞いたことがある。いいえて妙である。転移がんといえども、初期である。手術まではなかった。転移がんは進行が早いと言われる。しかしは早期は早期である、どう対応するか次第となる。ただ、出現の様相をみていると、体力の衰え、ストレスの中で出現が早まる。手術とともに体力が落ちストレスがたまり、METAが出現した。そして2クールの抗がん剤相当の縮小をみた。続く2クール本来は1.5クールになり、体力の消耗は激しく、精神的にもストレスがたまった。その後新しい小さな影をみる。そしてその影に対処するために、セカンドラインの治療を2クール、この治療は体力を相当消耗させた。自分自身には合わない薬剤であり、精神的なストレスも相当感じた。そうすると7ミリ程度の影が倍近くになっていた。そんな中で抗がん剤不用説は間違いだとは思う。無治療説も選択すべきではないと思う。ただ、医療が陥りやすい面がどうしてもがん治療には出て着るのではと思う。それは先述した 「病は患者自身が治す、医療はそのお手伝いをするだけである」の概念を医療側が忘れることである。最後は本人の気力と体力、まさしく今そう思う。私はガンの専門家ではない、今のメインは成長であり、顎骨である。私は臨床化ではない、あくまでも一基礎科学屋である。末端の野にある生物屋である。そんな私よりももっとがん患者と接した医者は多いだろう。しかし私は自分の経験で語る。そしてどうなるかはわからない。間違っていたら、命を落とす。そんな状況下にあるのだが、私は「病は患者自身が治す、医療はそのお手伝いをするだけである」と患者側にあるがゆえにそう思う。気力体力を優先し、抗がん剤治療等のガン治療とどう折り合いをつけて生きて行くのか、そんなきわどいチキンゲームをしかけている。
とはいえ、無治療でも余命数カ月の宣告を受けながら、5年10年と生きている人も結構少なくはない。死亡する人が目立つし、話題にもなるからガンは怖いとの先入観があるが、おそらく生きたがら得ている人のほうが多いように思う。その基本は上記した気力・体力であり、ある人は普通の人の2倍を食するとブログに書いていた。ガンには確かに悲観的な情報が多く、マスメディアやネットで氾濫している。そして悲観的な情報は取り上げられやすくまた記憶に深く刻まれる。しかし、元気に過ごしている人が多い、そしてもう一つの問題として、ガンをクリアーしたとしてどうするのかという命題にこたえていない。若い人はそれなりに通常の疾病と同じで考えていい。しかし私以上の年齢の人間、高齢に分別される人間にとって治癒する、改善する等々の後の人生はどうなるのかについての命題にこたえなければ、逆にそうがんが簡単に治ってもらうと社会が困る。
ガンは自己疾患、ともに生きればいい
ガンに対する考え方が少しづつ変わってきているようである。ガンそのもので死なない、すべてではないが基本的にはそうである。だから大きくならないようにともに生きればいい、大きくならないためにはどうするのか、治療の基本的な考え方、治療哲学をどう持つのか、ガンもどき論の近藤さんの意見は基本的には方向性が違う。言いかえれば古い、旧来のガンに対する思考で考えているものであり、それは新しい時代におけるガンの思考とは大きく違う。
私の友人の医療関係者に、末期ガンから帰還して、ホノルルマラソンを完走、はもうかるか?と問えば、今はその程度では話題にもならない、と切って捨てられた。私の周りにも、平気でがんとともに生きてい方々が多くいる。そんな時代になろうとしている。
2人に1名ががんにり患し3名に一人ががんで亡くなる、平均寿命は80歳である。
「2人に1名ががんにり患し3名に一人ががんで亡くなる。」この文章が多くのガンの一般本や記事等々の最初に来る。平均寿命は80歳であるという【日本人男性で】文章はほぼ記載されない。
統計学は使いようによっては大変有益な学問であるが、逆に府に使うと大変なマイナス作用を及ぼす。同時に言葉や状況説明は大変重要であり、これまでの歴史的な要素から「ガン」という言葉の響きは、マイナス作用を及ぼしている。
尊敬するハンス・セリエ先生は「研究者には課題を見つける人と、課題を分析する人がいる」と言われた。そして「正しい課題を見つけれる人は何万人に一人もいない」とも言われた。ある食事の席で「課題を見つける人間になれるように努力しろ、しかし、そのような人間は課題が見つけられなければ、枯葉のように何も残らない」とも付け加えられた。
話はそれるが、ハンス・セリエ先生の真骨頂はこの文学性の高さである。そしてもう一人の尊敬する、チェット・フランク先生は哲学性の深さでもあった。
ガンに対する治療哲学 抗がん剤は確かにもろ刃の剣である。私はガンの専門家ではない、にわか仕立ての1年間数十冊の教科書やら一般所やら本を読み漁った程度のレベルであり、ガンについての基礎科学的な要素はほぼわかってきたが、実際の現場的なことはほぼわからない。ただ、私は腎盂がんからの転移性肺がんステージでいえばⅣ期の患者の専門家であることは確かである。 ガンは自己疾患であり、糖尿病・高血圧等々と大分類では同じである。故に早期に対処すれば感知することが多いが、そうではない場合もある。私のようにステージⅣになれば、完治は考えない方が良い、今のところは。 重症の自己疾患では、どう生きるかを考えて疾患とともにあるのが、基本的な現状での哲学であろう。ということは、生きることを期間では考えずに死ぬことをイメージする。 生物はだれもが死を迎える。故にどう死ぬかを考えれることが人間らしいと言える。私の父は壮健な人であった。齢93で旅立った。しかし、私の中の父は70歳代であり、80歳を超えると老人となった。それを見てしまった。そしてガンの治療で病院に入院し、多くの老人を見て、大変失礼は承知で申し上げるのだが、私は老人になる前に去りたいと考えている。私は父ほど壮健ではない、父からマイナス10歳まあ70歳そこそこが区切りなのかもしれないと思っている。61歳でがんが分かって治療を開始した。生存率云々はあまりにも非科学的すぎる、私はとりあえず70歳ごろをゴールに生きることを考える、がんと付き合い70歳を目安に生き抜くかを考える。
治癒力を上げる とは?
メンタル
構造
機能
代謝
この4つの基本メカニズムを向上させることが
基本的に必要になる
メンタルには 死生観とストレスリリースがある
本来死生観は不要なのだが
ガンに対するイメージが「死」を浮かび上がらせる社会背景がある。
ガンはそれほど厳しい疾病でもないのだが、多くの人々はガン=死とイメージする。そしてそのストレスは極めて、強烈に身体に影響を及ぼす
ハンス・セリエ先生は、ストレスを「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」と考え、ストレッサーを「ストレスを引き起こす外部環境からの刺激」と定義した。
ストレッサーには、寒冷、騒音、放射線といった物理的ストレッサー、酵素、薬物、化学物質などの化学的ストレッサー、炎症、感染、カビといった生物的ストレッサー、怒り、緊張、不安、喪失といった心理的ストレッサーに分類される。
特に問題となるのは心理的なものである。
ハンス・セリエ先生のストレス学説の基本は、ストレッサーに曝された生体の見せる有害性に適応しようとする生化学的反応である適応症候群の理論にある。適応症候群は、脳の視床下部や副腎皮質などのホルモン分泌や自律神経系の神経伝達活動により起こる反応で、これによりホメオスタシスを維持することができるとされる。汎適応症候群(GAS:General Adaptation Syndrome)と局所的適応症候群に分けられる。
セリエは、全身適応症候群として3つの時期に分けた。
警告反応期
ストレッサーに対する警報を発し、ストレスに耐えるための内部環境を急速に準備する緊急反応をする時期である。警告反応期は、ショック相と反ショック相に分けられる。ショック相では、ストレッサーのショックを受けている時期であり、自律神経のバランスが崩れて、筋弛緩・血圧低下・体温低下・血液濃度の上昇・副腎皮質の縮小などの現象が見られ外部環境への適応ができていない状態と言える。このショック相は、数分〜1日程度持続する。
一方、反ショック相ではストレス適応反応が本格的に発動される時期で、視床下部、下垂体、副腎皮質から分泌されるホルモンの働きにより、苦痛・不安・緊張の緩和、神経伝達活動の活性化、血圧・体温の上昇、筋緊張促進、血糖値の上昇・副腎皮質の肥大・胸腺リンパ節の萎縮といった現象が見られる。
抵抗期
生体の自己防御機制としてのストレッサーへの適応反応が完成した時期で持続的なストレッサーとストレス耐性が拮抗している安定した時期である。しかし、この状態を維持するためにはエネルギーが必要であり、エネルギーを消費しすぎて枯渇すると次の疲憊期に突入する。しかし、疲憊期に入る前にストレッサーが弱まるか消えれば、生体は元へ戻り健康を取り戻す。
疲憊期
長期間にわたって継続するストレッサーに生体が対抗できなくなり、段階的にストレッサーに対する抵抗力(ストレス耐性)が衰えてくる。疲憊期の初期には、心拍・血圧・血糖値・体温が低下する。さらに疲弊状態が長期にわたって継続し、ストレッサーが弱まることがなければ、生体はさらに衰弱してくる。
ハンス・セリエは、副腎を摘出したマウスは、こういった3つの反応は起こらず、副腎皮質から出るステロイドホルモンが重要な働きを示していることを証明した。
10回目の抗がん剤治療を終えて、今日から免疫療法を始める。まずは第1回目のクール2週間を1タームとして6タームで1クールを基本とするらしい。それでどのような変化を生じるのか、変化が少なければPD-1との併用に進む。来年になるだろう。それで1~2クール 約6カ月。それでも・・エピジェニックな分子標的を併用する。それで6カ月。来年いっぱいのトリートメントイメージでもある。
人の体は、他の動物とは大きく違っている事は確かである。その要因は簡単には二つあり、一つは二足歩行そしてもう一つは意識性を持つ事である。この二つは他の動物にはなくと言う事は、マウス等での実験では局所的に意味があっても、全身的な意味はない事を示している。意識性はメンタルともサイコロジカルともいえる。構造はストラクチャー、この二つの要素に挟まれて、代謝と機能がある。10数年前の私ならばこのようなホメオパシー的な文章を書くことは全くなかったのであろう。その私が、マウスピース矯正と言う、まったくの局所的生体反応を操作する分野を経て、人の成長と進化や健康と大きく関係する口腔育成の概念と治療法の開発に至り、そしてガンの罹患。何とはなく胡散臭げな全人間的医療、以前なら毛嫌いしたのだが、全人間的な医療を、健康医療を、今故に語ることができそうである。
歯列矯正と言う分野に参入して15年、そして誰も手を出さなかった、世界で初めての口腔育成にほぼ10年、いろいろな不安も疑問もあった過程であったが、今この二つに関しては無性に自信がある。世界で第一人者であるという過信もある。そしてガンになり同時にファビリティーションデンタルと言う概念との出会いは、私を変えたようである。もちろん基本的な私の存在意味である、二つの分野における私の知識をいかに残すか、そのための仕事を始める時が来ている。相当な労力を要するようでもあるが。しかし同時進行としてファビリテーションデンタルの概念を普遍的にすることができるのかどうか。私にメリットがあるとしたら、ガンの罹患者であり、自らの身体を実験台とすることが可能なことなのだろう。
抗がん剤最後の予定が血液検査で白血球が低下し、コロニー刺激のサイトカインを注射して3日目が過ぎた。一年も抗がん剤の治療を続けていると、それも飽きた。違う土俵に移ろう。一年は十分に生きた。去年の今頃に、何年生きれるか自信はなかったが、それなりに生きた。色々と学ぶ事が出来た。経験は何にも勝る。経験の時間は多くのものを与えてくれる。次なる土俵が面白そうである。
今日から9月、長月、夜長月と言う。病院にいても肌寒い。病院にいるとあたらめて色々な人生がある事を知る。このフロアーには泌尿器科・上部消化器科があり、同じ階の東側のフロアーは糖尿病である。入院患者のたまり場で、いろいろな人の話を聞く事がある。自分を含めて病気とは何かを考える。糖尿病が分かりやすい。体重を減らせと言われている、食べ物を加減せよと・・・・。私は糖尿病はない、好きな物を好きなだけ食べ、生きる事は食べる事と思って、ひたすら食べている。病期の流れは比較的非科学的と言われる中にあるように思う。確かに若いころは「科学の権化」でもあり、西洋に軸を置いた。しかし、時とともに、科学にはより論理的科学性が必要であること、を知るに至ったように思う。多くの著名な科学者がたどった道でもあり、若いころはそれは違うとも思ったころがあった事が懐かしい。科学を否定しているのではなく、科学の論理性の重要性をより求めていると言い換えていい。三段論法ではなく、多段論法に耐え得る論理性が必要であると言っていい。
ここ数日は朝がしんどい。そして階段や坂道は相当きつい。平地はそうきつくはなく、歩くのは膝だけが問題である。抗がん剤は本当に悩むところでもある。治療の基本は免疫療法においているが、それに低用量の抗がん剤が効果があるのなら、流れでもう1クールを入れても良いのかもしれない。骨髄の造血能が相当低下していることも確かであり、とりあえずは今回が再度の標準医療における抗がん剤の使用の最後になるのかもしれない。きょう採決をしてどうするかを決めるが、採決で造血能がどれほどの状況かが目安とも言える。
抗がん剤の単純なマニュアル投与は基本的には止める方がいいのだろう。抗がん剤が効かないのではなく、抗がん剤は効くときは効くし、効かないときは効かない。
1年も抗がん剤治療を受けて、経験して文献を読むと、百聞は一見にしかず、でもないが、何万人診ていようが、自らの経験には勝てないだろう。(笑)
T細胞の免疫治療に80%程度の容量の抗がん剤を利用する、さてどうなるのかこれも経験である。抗がん剤を利かすためには必要な事は人間力をいかに高めるか。それがポイントになるように思う。
1.身体の構造と機能を再構築する
2.身体の代謝を再構築する
これが人間力の要素の多くを占める
その基礎的なものの上で 抗がん治療を行うことで、抗がん剤もそして免疫療法も効果を示すように思う。
転移したガンはなぜ悪質なのか、
転移した場所はエピジェニックな環境である。そこは原発、プライマリーな環境ではない。故にエピジェニックな環境に合わそうとする。
例えば きゅうりである。お店に出る多くのきゅうりは、カボチャの根を接ぎ木している。
これはきゅうりの皮を厚くし、中身の水分の蒸発を防ぐことになる。このような、キュウリはきゅうりでも、接ぎ木と言うエピジェニックな条件は、異なる植物に変えている。ガンも基本的に同じだと思う。見た目感は原発組織のガンであるが、遺伝的な要素はエピジェニックな性質もまた持つことになる。生物は基本手的に生き抜こうとする。これは10数億年以上の歴史による。ガンもまた生物である以上生き抜こうとする。生き抜こうとするのはガンだけではなく、ガンが出現した本体も然りである。ということは、本体の機能と構造を再構築することは必要になる。
転移がんにどのように対応するのか
現状発見されている伝染病の中で、狂犬病は100%の致死率になる。しかしワクチンで予防することが可能である、ということは適切な免疫機能が発言すれば、狂犬病にも打ち勝てる能力があるともいえる。
ガンに対応することはより分かりやすい。ガンは長年身体にあるがゆえに、免疫からいろいろな方法で生き延びようとしている。それは逆に免疫機能に対して部が悪い存在であることも言える。
抗がん剤治療は悩むところだ。継続するか休止するか。抗がん剤についてはいろいろな意見がある。そして医療側も試行錯誤している。ガンに対してそれほど専門家もいない。その場その場、局面局面の専門家はいる。しかしトータルとしての専門家はいないようである。腫瘍内科と言う分野が担当するのだろうが、それほどの専門家もいない、となると抗がん剤はそれなりの情報で使われている感がする。明確な理念ポリシーでの利用はほとんどないのだろう。
自分の身体である。最後は人に任せたくはないし、自分で決める事になる。さて、どうする、免疫治療派開始する。これがガン治療の本選になりそうに思う。何はともあれ放射線を除く標準治療を経験した。経験しないとわからない事が多い、そして次のステップに何を選択し何を考え何を想うか。
血液検査で血小板数が1.7万。予想外の低さの様で、とりあえず入院、血小板剤を2日ほど入れる。それ自体はそれなりなnだが、問題は増血小板能の活性低下であろう。
抗がん剤治療も考えなければならない、そろそろ標準的な治療はやめ時になるのかもしれない。または長期に中止した方がいいだろう。免疫療法を中心として、1年を過ごすことになりそうである。抗がん剤治療により免疫療法もメリットがあると言う事も言われるのだが、なかなか難しい問題でもある。体調の状況からいえば、免疫療法がより効果的な療法だろうと思う。それに代替医療を並行して動かし、漢方、鍼灸が面白そうであり、後は薬物療法をどう考えるかを研究者に基本案を考えてもらい、結論を出す事に。週末は入院で、避暑である。
血液検査で白血球は2800程度、血小板が3万程度。それ自体はたいした問題でもないのだろうがそのことをどう読むのか、今後の治療にどう考えるかである。簡単にいえば抗がん剤にどう対応するかと言える。免疫療法療法もいろいろある。鍼灸も大きく言えば免疫療法である。いろいろな免疫療法は可能な限り長く続けてみようと思う。
昨日の血液検査で白血球数が減少しているのはそれでいいのだろうが、リンパ球の%が増加している。これも面白い現象である。続けている鍼灸の効果なのだろうか。
ガンの組織検査の結果では、目印となるものが40%、それにかけるのは危険なので、トータルな免疫治療を行ってはとの提案。それはそれでいい。かっては西洋的科学の権化でもあった自分が違う科学性を求めている。結局は哲学する心に逝きつき、哲学的科学こそが人間を分析し科学的な判断となる。40数年前に志した「哲学」今になるとそれが正解だったように思うのもおかしい。
Iが後継をどうするかといった。後継はない、それが結論である。すべてを公共のものにする。それだけの価値をつける。価値をつけた時、私はこの世を去るのだろう。そしてそれなりの人材群が、私を超えて行く。今までは後継を創ろうとした。そういう意見に応じた。しかしそれはすべて失敗だった。後継などはない、あるのは自分であり、未来である。まだまだおもしろいことがたくさんあり、前に向かう、ひたすらに前に向かい、そして前のめりで倒れよう、そうすればだれかが私を超えて行く、私の背中を踏みしめて超えて行く。超えて行く人材がいなければ、それだけのものであったのだろう。しかし、エースデンタルには自信がある。これは残るだろう、新しい歯科医療のパラダイムシフトを起こすだろう、ビジネスとしては海外に拡大が最低命題である。後は子ども達の成長のための健康医学をどう創造するかもある。負荷とは何かを考えることもその流れである。負荷、いい意味でのストレス、40年前に帰るのだろうか、ストレスとは何か?考えてあの頃が懐かしい。アメリカシカゴで悩んだ、どんな道を歩こうかと。
確かに抗がん剤でばてている。抗がん剤をどう考えるのか、難しい。でも考えることが楽しい、夏の暑さにばてているのが分かる。抗がん剤の細胞侵害に加えてこの暑さである。しかし食べている。副作用で味覚もトラぶっている。だから食べている。ふつうは、夏バテと味覚障害、食欲はなくなるのかもしれない。でも、食べている、味を確かめるためにドンドンと食べる。味は判らなくとも、美味しい。
抗がん剤治療9クール2回目の入院。いくら元気とはいえ、抗がん剤を入れると、身体疲労はある。暑さもあり、東京は疲れた。夜に熟睡するとほぼ疲れ自体は取れたが。抗がん剤による体力の減退はどうしても続く。抗がん剤は本当に難しい、医者にこれをオペレーションしろというほうが難しい。医学的な知識、生物化学的な知識、自然科学的な知識を持つと自負している、とそれに加えて多少は歯科での臨床の経験を持つなかで、自分自身の抗がん剤のオペレーションは本当に難しい。しかし、難しい故に興味がわく、がん治療は難しい故に私の新奇性を掻き立てる。よくぞガンになりにけり、であり、この年齢であることに意味があった。高齢になりなっても新奇性を持てなかったかもしれない。ガンを考える事があらゆる仕事に通じている。私ほど、ガンになりラッキーと思える人間も少ないだろう、身体的には確かにきついが、この程度のしんどさはまだまだ十分に乗り越えられる。それよりも、考えれることの楽しみが数十倍勝る。
ガンである事は未来への事業展開が難しい。アドどのぐらい…が常に頭にある、2年か3年か5年か事業展開には少なくとも5年は欲しいのだが、ガンを罹患していると5年は遥か彼方の感がある。しかし、そこで悩んでも仕方がないと、ふっきる事も必要であり、5年10年を目指して 67,72の年齢のゴールを目指して歩き始める。途中で倒れても前向きに倒れれば、それなりの意味を持つのだろうと、それを信じて未来に向かえばいい。前向きに倒れよう、それが気持ちを高揚させるし、より集中した動きになる。
ガンに罹患しステージがⅣゆえに、未来を目指す。どこで倒れるかは時の運、何事も、治療も、事業も、研究も、社会貢献も、ライフワークも、どんどん行こう前に向いて走り続ける、精一杯やりきれば、後は神の御心のままである。
どの様な運命であろうと受け入れる。運命に毅然として立ち向かえる人間でありたい。幼いころより常に心に刻んだ「神よ我に七難八苦を与えたまえ」である。
昨日に抗がん剤の点滴を終えた。1回目の3泊4日 明日には一度退院する。そして来週に2回目の点滴を終えて 面的治療の順部を始める そして8月に始める。金はかかるが面白い、ほぼ1年はこれで遊べそうである。あともどんどん遊び道具が待っている。稼いでも使いどころに困るのだが、このような事に使えるならば、頑張ってどんどんと稼ぐ。少しホットフラッシュぽい感じはするがいつもの事でステロイドで改善はする。
肝機能も炎症反応等々も問題はないが、少し血球が少ない。元々多い方ではないのだから、まあまあというところなのかもしれない、故に免疫療法がより効果的なのかもしれない。
昨日(7月20日)に入院して今回は3泊4日の抗がん剤治療を始める。これを2回繰り返して1クール1カ月、それにプラスして2クール目から免疫療法を始める。これ治療法を1年やってみようと思う。後、数個の対処法を頭に入れている。基本は体力であることは間違いない。ただ、まだ体力とは何かの命題の解決がついていない。運動能力ではない事は確かであるが。この事はアレルギーにも関係がある。
木曜日に退院し、日曜日は東京、そしてまた来週には3泊4日の抗がん剤治療を行う。束縛は原則は8日間だが盛って生き方によれば4日程度。抗がん剤はどうしても併用はしばらくはするだろうから、この大学以外にも候補があり、現在検討中でもあるのだが、免疫だけで解決もするのかどうか、面白いところである。
とりあえずは流れに任せてみようと,そんな一年が終わった。次なる一年は、免疫療法を行ってみよう。一般的な免疫療法に加えて、鍼灸などの免疫活性を高めるだろうといわれる療法を試してみよう。いろいろなことを経験できる楽しみ、若かった頃のように何でもしてみたい、何でも試してみたい、そんなことを毎日考えていたころに帰ったようでもある。あの頃は命知らずだった。何も怖くもなかった。そして今そんな気持ちに帰っている。少しからだの動きが悪い。膝も痛い。しかし健全な精神は健全な肉体に宿る。ガンの治療の方向も決まった。肉体を再度改善しよう。
ガンは多くのことの免罪符になるのもいい。僕が恐れる奥さんもガンは、少しは免罪符になっている。医者や関係者からは「がんばりましょう」と言われる、頑張る気はない。ただの、持って生まれた新奇性がガンってどうよ?と、好奇心が私の心を燃えさせている。「ガンには見えませんね、お元気そうですね」それも困る、ガンは僕の免罪符。
何か知らないものを求め続けた20代、30代、あの頃と同じ息吹を感じてしまう。
明日になるのが楽しかったあの頃、今も明日が待ち遠しい。あの頃よりももっと具体的な空想が楽しい。どう衰えて行くのか、どう死に向かうのか、そして僕の死はほんの一瞬だろうけど、どう響くのだろうか。
なにはともあれ一年が過ぎた。転移がんは数個はあるがまだ小さい。二人の医師は少し進行しているようだというが、僕自身の考えでは抗がん剤の効果は減少はしていないがそれなりの効果を見せていると思う。CRPが平常値0.1~2程度であり、画像診断だけの判断では変化に対応できない、とくに肺は呼吸により大きさが相当量変化するために、画像の変化がある。CTも所詮平面である。頭の中で立体的に読むことが必要である。私にはほんの少しだが縮小しているように見える。2人の医師とは逆であるが。
1~2クールでは劇的に効果を示した。しかし容量を減じた3~4クールではその効果は少し減少した。そして5,6クール 少しの変化のなく 小さながんの増加があった。そして7、8クール、明確にはわからない 医師の言質では ガンが3個ほどあるという。前回の話では、本人は忘れているのかもしれないが、4個であり、上記したように大きめの1個は私の判断ではわずかに縮小または拡大はしていないという状況にある。
通常の考えでは、抗がん剤を効果を示したファーストラインを試すべきだということになり、それには異論はない。ただ、抗がん剤を経験してみて、ガン剤に対するいろいろな意見にほぼ結論的な考えを持つようになった。詳細はまた異なる機会に記するが、簡単には抗がん剤は効果がある。本来の効果はあれほど低いものではない。しかし自己治癒力が問題である。自己治癒力が相当落ちた状態での効果は低いし、同時に身体への異害作用の方が強くなる。人はがんというものに死をイメージする、助かりたい、多くの人は抗がん剤に頼る、しかしその時点では抗がん剤弊害作用が強く出る。簡単なメカニズムであり、標準的な治療派も、抗がん剤反対派も、それが分からないのか不思議だ。エボラもそうなのだが、受け手のレベルの問題が常にある。それに心理が被さる。さてさて、ガンもおもしろい。
昔から刹那的だったと思う。目の前のメリットしか不要だった。幼いころ小児喘息で苦しんだ。何回も死んだ方が楽だと幼心に思った。また、このまま死ぬのかもしれないと思うことも発作の中で何回も感じた。
死を見ることは嫌いだった。でも死を恐れることはなかった。
今を楽しければいい、父も母も八十歳を優に超えて生きた。僕はそれほどいきれない。しかし生きることは時間の問題でもない。いかに生きたかが大事だと思う。生きる価値は死後でもない。今をいかに生きたか、自分の中で満足できれば幸せである。今の毎日に後悔はない。
僕にもしものことがあれば…、おそらく問題はないのだろう、それを心配する必要もない。僕が今を精いっぱいに生き抜けば、もしも・・残された人たちは僕以上の逞しさを持って歩き続けることだろう。僕の後を心配する必要はない、今を精いっぱいに生きることが大事なのだろう。
誹謗中傷の裁判も和解に進もうと思う。もう飽きたし、終わったことである。終わったことはそれで終わり。彼もそれほど悪い男でもない、思い込みは強いが、それだけいい人間なのだろう。すべては明日に向かえばすべてがウエルカムである。虫唾が走る人間も何人かはいるがそれ以外は、過去はすべて忘れてウエルカムでいたいと思う。ガンであろうが無かろうが齢62になり、残された時間はそれほどはない。僕にもしもの場合はどうするのかとの心配は無用である。みんなが力を合わせて、より良いものにしてゆく基盤を作ればいい。後継者もいらない、僕の変わりもいらない、みんなが前向きに生きていけるそんなムードを作ればいい、そのためにはすべての人をウエルカムである。ウエルカムの人々が切磋琢磨して、新しい明日を拓くと良い、想いもいのちも絆もすべて継続する。
去年の夏はほとんどが病院だった。あと何回の夏が迎えれるのかは分からない。目標は10回である。ただ、衰え出すと一気に衰えるのも事実だろ。しかしそうはいかない。僕には体力・気力そして知力がある。そして松明を次なる世代に引き継いで人生を終わる、それまであと10回の夏を生き抜こうと思う。
もちろん頭に一部には、後1~2年なのではとの想いも確かにあるのだが、それも含めた上で、生き抜こうという体力と気力=意欲もそして知力がまた必要なのだろう。
水無月が終わり、文月になる。まだ梅雨空は続く。
おそらくは人生の中で最も充実した日々を送っているようだ。毎日の業務の中で集中しているが、ふと気付くと自分はステージⅣのがん患者であることを思い出す。少し分野は違うが毎日が歯科医学の執筆等の仕事に追われているが「ガン」という疾患にそれほど遠くもないところで思考し考察しそして実務を行っている自分がおかしくなる。治療法の開発の度合いは別にすると、現状レベルではそうは長くいきれないだろうし、「長生き」という言葉自体がガンに罹患する前から自分の辞書にはない言葉であったが、現実として具体的な面で、長生きは全く概念としてではなく、自分の中では存在しない。今の仕事にどれほどの時間が必要なのか、現状では1年から数年、宿題や試験と同じである、期日が見えると捗る。死というゴールがある程度見えていると仕事も捗る。面白いものである。60年間得たことを残しておく、それは自分に何らメリットはない。それが私が求めた人生でもある。残したものが有意義なのかそうでもないのかは、私は知ることもないのだろう。その時は天然の向こうに帰り、「無」となっているにしか過ぎない。私を創った父も母も今は無になり、私もまた近い将来に無になる。
なんでも面白がる、七難八苦をおもしろがり楽しむ。ガンであることも面白く楽しい、いろいろな経験ができることがまた楽しい。昔からいろいろなことを経験したかった、何にでも手を出した。それは金銭欲も名誉欲もなく、ただどんなものか知りたかっただけだった。ガンにり患した。思いもよらない出来事でもあったが、単純な胃がんや肺がんでないところもおもしろい。抗がん剤治療を楽しみ、入院生活を楽しみ、これからの日々を楽しめる。無になる日を目指して私は充実した日々を送る。人生の最後に近くなり人生また面白い。
6月23日 兵庫医大でCTを撮影、血液検査も。CRPは0.2、歯っ研究は少し少ないが3000台、抗がん剤治療ではまあまあなのだろう。CTは、5ミリ程度のものが2つ、以前からある、くびれのあるガン10ミリ少しのものが1つ、抗がん剤で抑え込まれているのか、少しづつ成長しているのか分からない、ということは7.8クールの抗がん剤の効果もわからない。3月の時点では3つばかりの話だったから今は3つなら1つは消失しているらしい。5ミリ程度の小さな影は消失するのも早いようである。なにはともあれ、今回の抗がん剤もそれなりに効果があったのだろう。
もう一歩治療を前に進ませるには免疫療法を加える手であろう。従来の免疫用法から新しいPD阻害薬まで、今後いろいろな選択肢が出てくるのだろう。7月2日に免疫療法の検討することになった。
「前に向かう」少しづつでもいいので、前に向かい歩き続ける。そうすれば可成れず物事は解決する。6月11日は、誹謗中傷の裁判の証言の日であった。まったく後ろ向きの、だれもが得をしない裁判である。そしてO君がやってきた。これも後ろ向き、解決を求めるものではなく、母親が家内に電話してくる。これも後ろ向き、後ろ向きでは解決はしない。このことはK女史のおかげで少しは前に進むようでもあるが、本人そして彼の母親には、これからも手がかかるのだろう。しかしこれはもう私においては終わりである。彼らとのつながりはまったくなく、ビジネスでしかない。後ろ向きな流れは、たとえ解決されたとしても、味気ないそれだけの存在になってしまうものでもある。
仕事もみんなのおかげで順調に動いている。もちろんもっと拡大する必要はあるが、少しずつである。急がば回れ、急がず進む。
抗がん剤治療は今年一年はしてみようと思っている。試行錯誤だが、実体験の中での勉強だから時間がかかる。集中的に勉強すればあっという間に専門的なレベルには行くのだが、今のところその暇がないし、私でなくてもいい様な時代背景にある。このまま人体実験的に勉強してゆく程度でちょうどいいのかもしれない。
2週間目の投薬が終わり 1週間後の投薬でサードラインの2クール目 合計で7.5クールの投薬である。そして至って元気である。もう少しくたびれた方がそれらしく低位のだろうが、シスプラチンは少し答えるが、セカンドラインとはくたびれ方が違う。2クール1カ月の旧約での体力強化が一番いい様に思う。新しいPD免疫療法やいまアメリカでの治験にある近赤外線を使った抗がん治療が今後の主流となって、本当にガンを消滅させる治療になるのだろう。抗がん剤は長かったがあだ花であり、緊急避難的な治療法であった様に思う。
10年を生きる、ステージⅣのガン罹患も、10年は生きることができる、そんな生き方であり、治療法を自らが開発しよう
ガンが遺伝子のスイッチミスが原因なら、スイッチのレベルを研究する自分には格好のテーマであるように思う。
治療自体、臨床自体は僕の仕事ではない。専門家がたくさんいるし、今まさに怒涛のようにその解決治療法が開発されそうに思う。語句の役割は、生命体の基本である、体力・気力・知力はどう成長するのかに関係する事項である。
そう長く生きれそうもないし、長く生きたくもない。ちょうどいい塩梅で、グッドバイ、そんな人生でありたいし、ありそうでもある。ガン様さまでもある。
何を成して逝くのか。思い残すことなくいければそれでいい。
① 細胞と負荷の関係 よりよく生きるための負荷について
② 進化から見た顎口腔系と全身との相関について
③ 顎機能学について
この3つの基本事項を、世の化中パラダイムシフトを起こしてて、残したいと思う。
そして 1、子ども達の成長の基本と暮らし
2、なぜ食育と口腔育成なのか
3、専門家の為の食育と口腔育成マニュアル を残しておこうと思う
最後に生業となった
各種歯の移動と口腔育成のための装置と臨床に関する項目
を残して、さっさと、この世の中にサヨナラをしよう。誰にも見られる必要もなく、自分が生まれ生きてきて、そして無に帰する、その一つの証として残しておこう。
著名人がガンでここ数日なく亡くなった。死が怖くもないが、気にはなる。残された日はそう長くはないのだろうから、想いの限りに生きて行こうと思う。自由気ままに生きて行こうと思う。世の中のすべての束縛に関係なく、生きて行こうと思う。
金が欲しいわけでもないが、生業も一つの目的を達成して終わりたい。特に海外での事業を始めよう。24歳の春にアメリカに行きたい、海外に目を向けたあの日の様に今年は海外に目を向ける。
事業は特許も何も取らない、そしてそれは世界で自由に使えるようにする。歯科治療の新しいパラダイムである。年商ベースで「50億」ぐらいだろうか。ACOでトラブル前は年少10億円をその年に、目指そうとしたのだから、そのぐらいは行きたい。
月末に多くのガンで著名人の死が伝えられた。第六感的に思ったのは抗がん剤である。今自身も抗がん剤治療を行っている。この治療は治療側に臨床力がいる。臨床力とは治療力である。抗がん剤は効果があることは確かである。ガンの種類により、ガンのメカニズムに違いがあり、その薬の薬理的メカニズムに合うか合わないのかがありそうではあるが、まったく効果のない事は考えにくい。私の第2クールに効果がなかったということになっているが、一度時間が出来たらこれまでの経過をじっくりと画像を追いながら考えてみたい。しかし、ガンのような種類の薬は生体には基本的には有害である。簡単には毒を持って毒を制するのがこの種の治療である。毒の使い方である。
毒をどう使うのか、標準医療に慣れてしまうと、臨床力が落ちてしまう。それがガン治療における大きな問題点であろう。現状どうすればいいのか、今のところ策はない、自分自身の体調と抗がん剤の意味を考えながら、治療を行う、ガンを一気に消滅させるのではなく、体調との兼ね合いを求めながら、ガンを諫めてそしてガンと共存しながら、本当にガンを消滅させることが可能な方法と時期が出現すれば一気呵成にそれを行う。それを医者に求めるのは酷である。そんな教育を受けてはいない。現代医学教育の盲点である。それならば利用するのは、やなりITなりの文明の利器なのであろう。
昨日から8クール目、サードラインの抗がん剤治療が始まった。そして週末は東京で楽しい夕食をした。どうもそう簡単にはくたばるわけにもいかないようである。
作家の車谷長吉氏が亡くなった。69歳であった。西行法師にあこがれ、世捨て人を目指して、最後は詩人の高橋純子さんとの夫婦の日々に生きた人であった。僕も世捨て人にあこがれた青春であるが、彼ほどの事は出来なかった。今も心の中に「世捨て人」への強い憧れがある。でもできない、父三平は、うまく世を捨てながら、巷と折り合いをつけた人生を生きた。そうもいかない、僕の方が不器用である。彼は人との戦いは起こさなかったが、僕はどうしても起こしてします。「世捨て人」基本的な能力が欠如しているのだろう。憧れだけで終わると思う、それも人生である。ならば、自分の体が自分で操作できなくなる日までは、(その日が来ればおさらばであるが)巷のど真ん中で生きて見るのも面白い。世捨て人の心を抱いて、巷の真ん中で生きてやろうと思いだした。もっともっと闘おう!想いのほどを叫び、世の中と戦い、ドロドロの時を送ってやろうと思う。そんな初夏の日々である
マウスピース協会に対するひぼう中傷のブログ等の裁判が始まり1年半がたつ。もう季節も2回目を繰り、新鮮さもなくなり、どの様な結果になっても、誰にとってもプラスなことはなくなった。 一言でいえば飽きたし、時間の浪費でもある。被告の陳述書を読んでもまあ、被害妄想というのかそういう感覚になるのだなあと、面白くもある。と言って、どちらでもいい感じもしないでもない。反論はと言われても、反論に値しない事を考える方が時間の無駄でもある。そして裁判はどちらに転んでも私にはそれほどの影響はない、結局は真実は何かということでしかなく、時間がたてば真実が真実になる、虚実はいくら言いつくろっても言い飾っても、虚実でしかなくなる。そんなものなのである、世の中はうまい事なっている。その時間が長いか短いかの問題で、これほど文明が進むと、その時間は昔に比べれば著しく短縮している。
悲壮感のない抗がん剤治療のサードライン、8回目の治療を終えて一度退院10日ほど休薬して、8回目の治療を行う。通常サードラインまでいくと、普通はもう手の施しようのない…と、いうことなのだろうが、期待に添わず元気である。ガンになり本当にどうなのかと言えば、楽しくはない、でも面白い。これからも面白おかしく生きてみよう、このままだと死期も明確に自覚できるだろうし、生物学医学に生きてきたのだからそのぐらいはわかる。そして市までの間が面白そうでもあるが、それまでの期間例えば2019年までの5年間はかけぬけてみようかと思う。そしてそのあとは死に向かって、謳い、叫び、詠み生きるのも面白そうである。
6日に退院し、きょうは10日、3日ほどしかたっていないのに、多くの事をまた見つけた。毎日が本当に面白い。15日は東京である。また新しい発見がありそうで面白い。
前のベットのおじさんの奥さんが泊まり込んでいる。生殖だけを目的とする。生きる事、生活することを助けあうことはほとんどない。
人間ではほとんどの夫婦が、子育てが終わった後、長く共に生きる。
多くは女性が楼記の男性を支えて生きる。その期間にそれまでの長い時間以上に、つながり、きずなが強くなる。そこには子供も存在しない、老いた二人が強い繋がりを築いてゆく。そして「死」という別れに向かって時の流れを歩いてゆく。生まれ変わったらどうすると聞かれる、誰もが答える、また同じ夫婦で生きると。僕の場合はそれ以外の選択肢はないのだが、彼女は違う選択をするほうが幸福なのだろう。
ガンの罹患は本当に自分にとってどうなのかを思う事がある。負けず嫌いで、ガンになってよかったと言っているのだろうか、と思う事がある。しかし、「武士道とは死を自分で決める事である」という人生観に於いても良かったと思うし、介護を受け、自分の尊厳、動物としての意義を失して生きるなくてもいい、そして「死」というゴールを実感して夫婦を生きる事が出来る、等々。やはりガンへの罹患は本当に人生の最後を充実感を持たせてくれると思う。体力、気力、智恵力を5年は維持する事が出来そうである。やらねばならない事がある、石にかじりついても生きるが、それ以上になると、どうなのかなあ、と今の時点では思う。
歯科学の新しいパラダイムシフトを口腔育成の保育における重要性を、世界に残すことにチャレンジして行くのだが、アイデアはないのだが、医療の世界それもガンにチャレンジしたい気持ちもあるが。いい加減な、自然科学ではない対象は原則あまり得意ではない、自分を対象にすると言っても、自分自身は非常識の人間であるから少し無理がありそうだ。
昨年の5月8日にがんを告知された。1年が過ぎた。まだまだ元気だし、まだまだ寿命は続く。人生は面白い、人生は楽しい、僕は幸せな日々を過ごしている。しかしいつか生命の尽きる日は必ず来るのだろうが、ただ言える事はその日は自分で決める。生命の原則は終わることである。自分の生命は自分で決める。そして幸せに終わる。
とはいえ、ガンよりも膝が問題と思う、膝をどう治すかを考えよう。ガンはステージⅣだろうが、自分の生命とは直接的に関係はない。それは奇跡ではなく必然である。
種を存続させるために長い歴史で得た経験上の最適な生と死の循環の平均値が種の寿命である。種を存続させるために「死」があり、実に最高の存続の方法でもある。故に死は生の為にあり、人間以外の種に於いて、言い換えれば個体性を持った人間以外の動物に於いて、死を考えるなどの必要はないといえる。しかし、個体性を持った人間は、人から人間となり、個体の存続と消滅に一喜一憂することになる。
しかしながら、人間も人間以外の動物の本能性を強く受け継いでおり、その個体が、例えば私が死して、無機質なものとなった時、多くの人の意識から時間とともに忘れさられる。残された人々はどうなるのか、それなりの個体性を持って生きてゆく、それほどの心配はいらない、世の中はなるようになる。成るようになってゆくのが世の中でもある。
30歳代のころ「幸せって?」と、日本のトップクラスの宗教家のみならず、世界のイスラムやキリストそしてさまざまな宗教家から哲学者に問うたことがある。誰もが私の心を揺さぶる言葉を発しなかった。そしてある日父に同じ質問をした。「幸せと思えば幸せだし…僕はどこにいてもどんな時も幸せだ」と。
一つの生命体、人という心理的な存在を持つ生命体の生きる期間は短い。長くともほんの100年程度である。生命体にはそれなりの寿命があるが、それはその週に於いてその寿命が適している状態であるといえる。その基本的な要因は「種の存続」の基本目的がある所以なのだが、
生まれて死ぬ、それが生物の宿命である。立花隆氏が、NHKsスペシャル番組で「臨死体験-死ぬ時心はどうなるのか」を考えている。死ねば、存在がなくなる、死ねば無機物になる、無機物には心理的な代謝はない、それは存在がなくなるだけの事である。無機的存在と有機的な存在の違い、そして有機の中でも脳的存在がある種と、存在がない有機がある。そして人になった時、人だけに心理的な存在がある。しかし心理的存在の行為に思考的存在があり、それは智恵力ともいいかえることになる。
思えば長い時間を色々な事をしてきた。その中で医療と科学の間を行き来しながら生きてきた時間も長い。どうしても医療にはなじめなかった、基本的には好きではない、語弊はあるが頭より肉体労働、そんな仕事はもともとあまり好きではないのだろう。
抗がん剤を投与すると、どうしても体が衰弱はする。通常の生活ではそれほどわからないのだが、ウオーキングなどをすると息が切れるし疲れがです。しかし、コンクールからは早朝少し散歩を始めた、5月からは朝晩の散歩をしてみようと思う。食と休養そして適度な運動が体力の基本である。
1年がたち、元気である。左側の腎臓から尿管は摘出している。それ以外変化はない。肺に4個ほど小さな転移がんがあるらしい。抗がん剤は3種類目、クールが明日で終わる。ちょうど4週で、次のクールを続けてもいいし、少し時間をおいてもいいし、というところである。
5月になった、連休が明けて、ちょうど一年前に腎盂がんの告知があった。肺への転移があり、病期で言うとⅣ、平均的には5年生存率は10%程度という。5年生存率をどこから測るのだろう、医療の医療のいい加減なところなのだが、このいい加減さに気持ちが参る事もある。医療が自然科学の本家だと思いがちだが、医学はどちらかというと人文科学的であり、自然科学としては結構いい加減である。
昔でいう、昭和で言う、天皇誕生日であり、今風には昭和の日という。今日で抗がん剤の点滴が終了、Mvac療法という多剤の抗がん剤での治療の1クールが終わる。これまでの抗がん剤の結果をくわしく見ているものでもないが、それなりにこれまでの6クールは結果は出ているように思う。転移性の肺がんはいつくかが発現する。 成長が停止しているときその効果はないのではないだろうか。そして発現し成長した時抗がん剤が効果を示す、ということなのだろうか。次回からは画像をより詳しく見て行こう。担当医師を信用しないわけでもないが、自分の目で見て判断する事も、CTを学んだ事もないが、少し興味が出てきたようだ。
命の限りを感じながら 死を見つめて、」短詩をうたう日が来るのだろう。その日の為にもう少し日本語を学んでおこう。命の限りに謳う日の為に。やつれて、命の限りを感じながら、血を吐くように言葉を吐く、その日が来る事が楽しみでもある。
60数年生きてきて、いろいろなものを学んだ、そして考えた。もっと学ぶことが山ほどあるのだが、もうそれほどの時間はない。それが残念なのだが、学んだもの考えたものは、次世代の少しでも参考となるように残しておく事が人の一つの役割なのだろう。限られた時間の中で重要なのだろう。いくつかのホームページに残して、そして同時に歯科医療界に、保育界に色々な方法を用いて残してゆくことになる。その事にどれだけの時間がかかるのだろうか、3年、5年10年、それはガンと共存するという知恵を出すことにもつながる。そしてその思考の中で、おそらくは最後になるだろう一つのテーマが見えそうでもある。細胞遺伝子のスイッチ」色々な角度でそれを切る事ができる。
歯牙の萌出=汗腺の成長
・・・皮膚免疫
唾液腺の成長
唾液腺の成長
↓
自律神経機能 基礎は
血液等の免疫機能
食する意欲 ⇒ 新奇性
攻撃性 ⇒ 群れる社会性
生活意欲 常識的な行動
協力的な行動
規制的な行動
この成長の中で細胞の遺伝子たちがどうスイッチが入りどのレベルがどうの様な状況に至るのかを、より基礎科学的な検証が求められる。そのためには研究所の設立と資金がいる。食育・口腔育成研究所を・・夢に終わるか、いや研究は次の世代に任せるとしても少なくとも研究所の設立までは行おう
そして
口腔状態は全身の成長を導く
口腔状態は口腔の廊下を導く
の二つのテーマもより普遍的な論証を行わねばならない
ガンである以上に、老化という限りがある生命である
かっこよく死のう、日常の生活の中で、一瞬にしてこの世を去ろう。そんな毎日を送るためには、毎日の変化を求める事が必要になる。
毎日が変わる、変わり続けることが積み重なった時、物事は大きく変わる。
成人用マウスピース矯正装置「SAKURA」はおそらく世界一のシステムを含有する装置だと、自負できる。その意味を今後数年かけて残してゆこうそしてこれを使いきれるかどうかは、製作する技工士と治療する歯科医師次第である。このイクイップメントはあくまでも装置であり、医療機器とは違う。
口腔育成システムは、世界で初めての考え方である。但し、子の口腔育成はまだ未完成であり、この意義が全身に及ぶ事を論理的に説明する構築作業が残っている。臨床的な試験を繰り返して、構築しなければならない。そしてその延長線上に新しい命題がありそうに思うが、今はそれが何か分からない。ガンがイメージ上にあるのだが、もう少し思考を続けよう。
装置関係は、すべて公表する。すべて口腔基礎科学研究所のホームページに記載する。多くの人が参考にすればいいし、それが改良されて大きく変化するのもまたいい、私は老いている。独り占めにするほどの時間はない、
遅くとも来年には海外に進出する、日本の技を売り物にして。
おそらく生業も大きくこの1年2年で変化する。細かな事に気を使うことはない。おそらく1年後の春には、すべてが一新されている事だろう。
ノーベル医学整理、そして物理学賞が日本人に、凄いものである。スマートサイエンス、僕の専門はスローサイエンス、世間的にも、研究的にもスローサイエンスは分が悪い。
答えが出ぬくい、目立ちもしない、答えは何年もかかる、でもそんな研究がほとんどであり、地道に世界に貢献している。それでいいのだろうと思う。
どうも一生貧乏で名もなく終わりそうである。それどころが一歩間違えば落ちぶれ、ぼろぼろになって人生を終えそうでもある。でもそう後悔はない、清くはなかったが、貧しく美しく
人体・医療にはいろいろな分野があり、小児の成長、頚部顎口腔系の構造、負荷と恒常性そして進化医学等々地味でもあるが、貢献度としては大きいと信じて進んでいる。自分自身のことでいえば、ガンと言う疾患で、終わりが見えないことがストレスと言えばストレスになる。しかし私の専門の一つが「負荷」であり、それはいいストレスのことである。ストレスには2つある。悪いストレスと言いストレス、通常は悪いストレスをストレスとして使うが、セリエ博士曰く「ストレスは人生のスパイスである」。言いストレスに帰ればそれもまた人生のプラスになる。CT画像診断の日である、ガンが大きくなっているか、小さくなっているか、大きくなればなるように、小さければ小さいように次のステップを用意して、それを楽しめば、それは負荷となってプラスに働く。抗がん剤をどう使うのか、免疫療法を今後どう対応するのか、そして新たな治療法をどうするのか、未来が見えないストレスを逆に楽しめば未来は楽しくなる。
免疫療法を始める。保険のきかない医療であるが、ガンと言う対象には本来は本堂である気がする。抗がん剤は色ものであり、どこかで間違えたのではと思う。抗がん剤を否定するのでもないのだが、分子標的薬のようなものが開発の基礎にはなりえたし、使い方次第では、それなりの効果を発揮する。しかし、あくまでも色ものである。外科か免疫療法が本来は正道なのだと思う。
安定したメンタリティー 心理・意識
強固なストラクチャー 構造性
に挟まれて メタボリズム 代謝と
ファンクション 機能性 がある
代謝は食であり呼吸であり
腸 免疫の一部もそれに含まれる
機能は自律神経系であり、筋力であり 免疫であり・・・・
人は安定したメンタリティーと
強固なストラクチャーの中で
よりよく食を摂り 呼吸をすることが必要であり
機能をあげて行くことが求められる
機能を上げることは それなりの「負荷」を与え
ることが必要である
メンタリティで重要なのは、群性と新奇性である。群れることが好き、そして好奇心であろう。強固なストラクチャーは「頚部顎口腔系」がの構築が基本となる。
ガンはこのシステムが崩れたときに発生したのだろう、それを再度構築する。それがガンを克服する基礎である。そのうえで治療行為がある。
矢沢栄吉のコマーシャルが流れている。「やりたいことをやる人生は楽しい」と。本気でやりたいことをやると、人生は本当に面白い。ただ、このコマーシャルの脚本を書いた人に言っておきたい。
本気でやりたいことをすれば、必ず人に迷惑をかける。特に妻には多大な迷惑をかける。そして迷惑がかかっていなければ、それは本当にやりたいことをやった人生ではない。
齢62歳 そしてステージⅣのがん。いつ死んでも後悔もないが、妻にだけは小さな幸せでいいから残してやれないかと、思考錯誤が続く。
これ以上迷惑をかけずに死んでいくことが、妻に迷惑をかけないことなのだろうが、また面白がって「ガン」と遊んでいる。ガンに対してやりたいようにやって、また妻に迷惑をかけている。結局天然に去るその時まで、激しい人生で、妻に迷惑をかけることになりそうだ。やりたいことをやる人生は、そうかっこいいものでもない
人類は「哲学する心」を持ち続けなければならない。私に間に合うかどうかは別にして、がんで死なない時代が来る。心臓病で血管疾患で死なない時代が来る。しかし、今のところ、生命は限界があるが、長寿社会をどうするのか、その前に人はどう生きどう死ぬのか、哲学の最も基本的な命題を思考することがより一層求められるのだろう。
もはや財も名もいらない、死を目の前に見つめるとき、生もまたいらない。どう生きるのか、目の前にある課題を一つ一つ解決し、そのための勉強を常に続け、前に向かい続けたい。いかに死ぬのかのほうが難しい、死ぬ時はガンの治療をやめればいいのだろうが、それほどの勇気も今の私にはない。神の御心のままに、ガン治療が効果がなく、死に逝く、ぐらいしかできそうにもない。武士道は死ぬことである、のは私には無理そうであり、所詮似非武士道しか持ちわせていない、また老衰のように衰え死ぬのも生意気にも矜持が許さない。中途半端な根性しかない私には、ガンの進行に生命の限りを任せるという、他人任せの今の状態が私には向いていそうである。
私の研究テーマ、先日中山勲先生に言われてのだが、「未病」であろう。病気をしない身体と生活を創造する、それが最終的なテーマでもあると言うことになる。
多くの病気もまた治癒する時代であり、私の様な未病にチャレンジする人間もいる。「しなない時代、死ねない時代」が来る。しかし人間は加齢とともに老化する。このスピードは調整できたとしてもそれをとめる事は出来ない。
その中で社会構造は大きな変化が生じるのだろう。文明と文化で構成される社会構造が大きく変わらざるを得ない。
存在」する意味
多くの死にかかわってきた。何千何万の死を見つめてきた。しかし自分のお癒しを考える事はなかった。ガンに罹患し、自らの「老い」そして「死」を見つめる機会を得た事は、大きなプレゼントであった。
ガンの治療は進む、私のガンも死との隣合わせではない時代がすぐそこに来ている。しかしその反面、いや故にというのか「老い」がより近くに焦点が合いだした。「老い」たくはない。
私は老いる事はない。介護という言葉はない。自分の矜持が許さない。自分で死を選択する。武士道とは「死は自らが決める」である。日本人らしく武士道を持って生きていきたい。
存在する事とは何か。身近にはまず妻の父が逝き、母が逝き、引き続き私の母が逝き、そして父が逝った。妹がガンになり、私が末期のガンになった。そして生きる事、死ぬことの意味を考える機会を得た。
私は今生きている、それは「存在」している事である。死ぬことにより「存在」はなくなる。存在はPresence それは「時」である。父が逝き、母が逝き、父達の時は存在しないが、私たちの時は流れ続けている。
ときには3つの要素がある。「総体性なるとき」と「個体性なるとき」そして総体性の時の中にある、あるいは一体化している「変化性のとき」がある。。個体性なるときは人間だけがもちえたときである。人間がいなければ、大宇宙には総体性な時と変化性なときしかなかった。
では時の始まりはあったのだろうか、変化性の時に於いては、時の始まりはあり、ゆえに時の終わりもある。総体性な時には始まりと終わりがあるとは、言えない。
その前に「変化性」とは何か。時に流れに有機的であろうと無機的であろうと、存在しそして変化をする、又は消滅をする、また新たに誕生する存在体をいう。その存在体自体にも時があり、だがそれは自己認識するものではなく、総体的なときと一体化している。人間が存在し個体性なるときがない時代に於いては、総体なるときがありその中に変化性の時があり、とうとうと流れていた。ある時点、ほんの近い時代までそれだけの時=存在の意味であった
ノーベル医学整理、そして物理学賞が日本人に、凄いものである。スマートサイエンス、僕の専門はスローサイエンス、世間的にも、研究的にもスローサイエンスは分が悪い。
答えが出ぬくい、目立ちもしない、答えは何年もかかる、でもそんな研究がほとんどであり、地道に世界に貢献している。それでいいのだろうと思う。
どうも一生貧乏で名もなく終わりそうである。それどころが一歩間違えば落ちぶれ、ぼろぼろになって人生を終えそうでもある。でもそう後悔はない、清くはなかったが、貧しく美しく
人体・医療にはいろいろな分野があり、小児の成長、頚部顎口腔系の構造、負荷と恒常性そして進化医学等々地味でもあるが、貢献度としては大きいと信じて進んでいる。自分自身のことでいえば、ガンと言う疾患で、終わりが見えないことがストレスと言えばストレスになる。しかし私の専門の一つが「負荷」であり、それはいいストレスのことである。ストレスには2つある。悪いストレスと言いストレス、通常は悪いストレスをストレスとして使うが、セリエ博士曰く「ストレスは人生のスパイスである」。言いストレスに帰ればそれもまた人生のプラスになる。CT画像診断の日である、ガンが大きくなっているか、小さくなっているか、大きくなればなるように、小さければ小さいように次のステップを用意して、それを楽しめば、それは負荷となってプラスに働く。抗がん剤をどう使うのか、免疫療法を今後どう対応するのか、そして新たな治療法をどうするのか、未来が見えないストレスを逆に楽しめば未来は楽しくなる。
免疫療法を始める。保険のきかない医療であるが、ガンと言う対象には本来は本堂である気がする。抗がん剤は色ものであり、どこかで間違えたのではと思う。抗がん剤を否定するのでもないのだが、分子標的薬のようなものが開発の基礎にはなりえたし、使い方次第では、それなりの効果を発揮する。しかし、あくまでも色ものである。外科か免疫療法が本来は正道なのだと思う。
安定したメンタリティー 心理・意識
強固なストラクチャー 構造性
に挟まれて メタボリズム 代謝と
ファンクション 機能性 がある
代謝は食であり呼吸であり
腸 免疫の一部もそれに含まれる
機能は自律神経系であり、筋力であり 免疫であり・・・・
人は安定したメンタリティーと
強固なストラクチャーの中で
よりよく食を摂り 呼吸をすることが必要であり
機能をあげて行くことが求められる
機能を上げることは それなりの「負荷」を与え
ることが必要である
メンタリティで重要なのは、群性と新奇性である。群れることが好き、そして好奇心であろう。強固なストラクチャーは「頚部顎口腔系」がの構築が基本となる。
ガンはこのシステムが崩れたときに発生したのだろう、それを再度構築する。それがガンを克服する基礎である。そのうえで治療行為がある。
矢沢栄吉のコマーシャルが流れている。「やりたいことをやる人生は楽しい」と。本気でやりたいことをやると、人生は本当に面白い。ただ、このコマーシャルの脚本を書いた人に言っておきたい。
本気でやりたいことをすれば、必ず人に迷惑をかける。特に妻には多大な迷惑をかける。そして迷惑がかかっていなければ、それは本当にやりたいことをやった人生ではない。
齢62歳 そしてステージⅣのがん。いつ死んでも後悔もないが、妻にだけは小さな幸せでいいから残してやれないかと、思考錯誤が続く。
これ以上迷惑をかけずに死んでいくことが、妻に迷惑をかけないことなのだろうが、また面白がって「ガン」と遊んでいる。ガンに対してやりたいようにやって、また妻に迷惑をかけている。結局天然に去るその時まで、激しい人生で、妻に迷惑をかけることになりそうだ。やりたいことをやる人生は、そうかっこいいものでもない
人類は「哲学する心」を持ち続けなければならない。私に間に合うかどうかは別にして、がんで死なない時代が来る。心臓病で血管疾患で死なない時代が来る。しかし、今のところ、生命は限界があるが、長寿社会をどうするのか、その前に人はどう生きどう死ぬのか、哲学の最も基本的な命題を思考することがより一層求められるのだろう。
もはや財も名もいらない、死を目の前に見つめるとき、生もまたいらない。どう生きるのか、目の前にある課題を一つ一つ解決し、そのための勉強を常に続け、前に向かい続けたい。いかに死ぬのかのほうが難しい、死ぬ時はガンの治療をやめればいいのだろうが、それほどの勇気も今の私にはない。神の御心のままに、ガン治療が効果がなく、死に逝く、ぐらいしかできそうにもない。武士道は死ぬことである、のは私には無理そうであり、所詮似非武士道しか持ちわせていない、また老衰のように衰え死ぬのも生意気にも矜持が許さない。中途半端な根性しかない私には、ガンの進行に生命の限りを任せるという、他人任せの今の状態が私には向いていそうである。
私の研究テーマ、先日中山勲先生に言われてのだが、「未病」であろう。病気をしない身体と生活を創造する、それが最終的なテーマでもあると言うことになる。
多くの病気もまた治癒する時代であり、私の様な未病にチャレンジする人間もいる。「しなない時代、死ねない時代」が来る。しかし人間は加齢とともに老化する。このスピードは調整できたとしてもそれをとめる事は出来ない。
その中で社会構造は大きな変化が生じるのだろう。文明と文化で構成される社会構造が大きく変わらざるを得ない。
存在」する意味
多くの死にかかわってきた。何千何万の死を見つめてきた。しかし自分のお癒しを考える事はなかった。ガンに罹患し、自らの「老い」そして「死」を見つめる機会を得た事は、大きなプレゼントであった。
ガンの治療は進む、私のガンも死との隣合わせではない時代がすぐそこに来ている。しかしその反面、いや故にというのか「老い」がより近くに焦点が合いだした。「老い」たくはない。
私は老いる事はない。介護という言葉はない。自分の矜持が許さない。自分で死を選択する。武士道とは「死は自らが決める」である。日本人らしく武士道を持って生きていきたい。
存在する事とは何か。身近にはまず妻の父が逝き、母が逝き、引き続き私の母が逝き、そして父が逝った。妹がガンになり、私が末期のガンになった。そして生きる事、死ぬことの意味を考える機会を得た。
私は今生きている、それは「存在」している事である。死ぬことにより「存在」はなくなる。存在はPresence それは「時」である。父が逝き、母が逝き、父達の時は存在しないが、私たちの時は流れ続けている。
ときには3つの要素がある。「総体性なるとき」と「個体性なるとき」そして総体性の時の中にある、あるいは一体化している「変化性のとき」がある。。個体性なるときは人間だけがもちえたときである。人間がいなければ、大宇宙には総体性な時と変化性なときしかなかった。
では時の始まりはあったのだろうか、変化性の時に於いては、時の始まりはあり、ゆえに時の終わりもある。総体性な時には始まりと終わりがあるとは、言えない。
その前に「変化性」とは何か。時に流れに有機的であろうと無機的であろうと、存在しそして変化をする、又は消滅をする、また新たに誕生する存在体をいう。その存在体自体にも時があり、だがそれは自己認識するものではなく、総体的なときと一体化している。人間が存在し個体性なるときがない時代に於いては、総体なるときがありその中に変化性の時があり、とうとうと流れていた。ある時点、ほんの近い時代までそれだけの時=存在の意味であった
生きること 死ぬこと ガンととも
7月16日 自分自身に「生」に対する執着心はそれほどはない。ガンを何が何でもクリアーしたいとも、生き抜きたいとも思わない。好きなことをして好きなように生きて、おそらくはというよりは確実に、妻以外の女性には相手にされなかっただろう、確実に離婚しただろうというほどに気ままに過ごしてきた。(生まれ変わったら妻と再度結婚するかと問われたら、僕にはそれ以外はない、と答える。いや、彼女が僕を選択するかどうかであり、僕には選択権もないのかもしれない。彼女が僕を選択しなければ、僕の辞書から「結婚」という文字はただ消える。愛していますかと問われたら、愛させていただいている、と答える、いたって謙虚でしかない)
ガンの罹患が分かった当初は、家族や会社のために何ができるか、何をしておくか、などと考えたが、今は考えも大きく変わった、恐らくは「為るようにしか為らない」のだろう。家族や会社に何ができるかなどくだらない、そしてされた側もたまらない、自由でなければ、そう思って生きて来たのだから、これからもそして残してゆく彼らにも自由であれ、と言い続けようと思う。
故に、闘病に気力等はいらない。なぜ今を生きるのかと問われれば、生きることが楽しい、面白い、と答えよう。体力をつけるという意味で、遠慮せずに食べることができる、BMIやメタボなど、気にしなくてもいい。体力のためにと言えば誰もが黙る。いろいろと動くことができる。運動のための言えば誰もが黙る。電車に乗り、徒歩で、いろいろな場所を見て歩く。そして治療自体もおもしろい。いろいろな意見があり、いろいろな開発が進み、でも結局は僕のフィールドにすべてが戻ってくる「いかに生まれいかに育ち、いかに生きるか」。
明日が来るのが楽しい、明日にはどうなっているのだろう、どう向き合い何をするのだろう。楽しみ、考え、実行する!そして楽しく食べて動く。
7月9日 免疫療法の説明を受けた。興味深い、やる価値もあるようだ。いろいろな療法がガンにはどんどんと出てきたいる感がする。医療とはそんなものだというのもわかる。30数歳のころ、直接は関係のない人生であったが、ガンの原因論がほぼ見つかろうとしていた時期を知っている。そのころも食にかかわっていたのだが、今ほど直接的ではなかった。
もちろんガンで死ぬ人も今も少なくはない。ガンに罹患する人は増加しているようでもある。長寿になったこと、ストレスが増えたこと、様々な複合要因なのだろう。今、研究中の子供のアレルギーも然りである、単純な要因ではなく、社会と個人の複雑に関連した複合要因なのであろう。それを単純に言えば、ガンであろうと、アレルギーであろうと、社会の変化と、言うしかない。
免疫もおもしろくなっている、同じ免疫でも過剰反応のアレルギーを考えるのと、免疫治療とでは違うもののように思えてしまう。しかし、故に免疫療法の話を聞くのもおもしろい。
現状の抗がん剤にしろ免疫治療にしろ 完全に治癒傾向を表すのは10%程度、基本は体力があるかどうかだと思える。知力だけではない、気力と知力も人間の基礎力として不可欠であると思う。免疫療法を見ると、効果を示すのは25%程度と記している。抗がん剤もそうなのだがこの数字は事実関係を示しているにしか過ぎない。統計とはそういうものである。客観的に数字のみを見つめることも必要である。数字上で表せば、「無」は「0」である。数字的には無は簡単に表現できる。しかし無を数字以外でイメージすることは難しい。同じようなことが統計には起こる。数字と実態は同一ではないことが多い。
私の場合抗がん剤治療は結構効果を示していると思える。おそらく免疫療法で完全にとはいかぬまでも、ある程度のレベルで安定化するように思う。そして時間稼ぎが十分可能に思う。なぜか、それは体力であろう。
6月25日 23日のCTでは前回の撮影からは大きく変化はない。左右に小さな影が2つと比較的大きなのが1つ、3月30日から、ほぼ3カ月だがそれほどの変わりはない。ここ5年がガン治療のピークを迎える治療法が開発されるのではないだろうか。人類もそろそろがんとの闘いに終わりを告げる時が来たようである。その後には今僕が手をつけている進化の急激な展開による様々な問題が出てくるのだろう。いつもだが、少し早すぎるのが僕の思考なのだろうか。故にお金にならない。その延長線上にある「口腔育成」そしてマウスピース矯正も早すぎたようでもある。離れた時、花が咲く。それでもちろんいいのだが、今回はそれが見れるかどうかは分からない。死してはなれるか、伝え終わってはなれるか、どちらにしろ、ガン治療が間に合うかどうかの綱渡りのような人生である。刺激があっていいのかもしれない。
6月18日 15日に退院し 3日目 最終の抗がん剤の点滴が9日、ちょうど一週間目、Mvacという抗がん剤の合剤の治療法だが結構体も参るようである。臨床の人たちの言う、抗がん剤は効かない、抗がん剤はよくないという話もそれなりに理解できる。この薬を体力のない状態の患者に使えば逆効果になるだろう。抗がん剤、放射線という流れは止める方向で考えるのがいいのだろうとおもう。そして、そう遠くない将来にその治療法が開発されるのだろう。私が間に合うかどうかは別にして、ガンが克服される時代が来そうな実感的な予感がある。
私は何をしても結局は何をしても飽きるから、それほど生活自体に目標もしたいこともないので、まあ、この世をおさらばするのもまたいいのだろうと、思っているし、もがきながら生き続けるのもおもしろいのかとも思うし、ただ、老いを晒して生きることだけは自分のプライドが許さない、それだけは確かである。
6月5日 ガンという疾患自体に目を向けて、そのメカニズムと成長のメカニズムとの相関を考える穂も面白そうでもある。朝、パートで勤めていた女性に偶然面談した。乳がんでの治療中である。抗がん剤治療を先行し、先日摘出したそうである。抗がん剤は相当きつかったとの話である。基本はやはり体力、その体力を現代人はそのレベルが相当低下しているのだろう。そこに私の研究のテーマがありそうである。ガンそのものの治療は、もう私が入り込む余地もないだろうが、見病である事、元気である事の意味に、何らかのまた面白い引っかかりがありそうでもある。
抗がん剤には二つの大きな問題があった。新しい治療法の流れが始まっている中では、過去形で「あった」という事にしよう。一つは副作用そして一つは効果が限定的である点である。最後は耐性の問題である。
①副作用 ②効果の限定性 ③耐性 の3点である。この3点を少しずつ思考をくりかえしてみたい。
5月20日 ガンや免疫の研究は、今から始めても出遅れている。今はまだ、大向こう受けはしないが「成長」そして健康医学が、トップランナーとして走れる分野なのだろう。ガンは間もなく一つのゴールを迎えるように思う、そこに参加の余地は残されていないようである。
5月19日 抗がん剤8クール目へ
-元気であるー
昨日5月18日入院 19日から抗がん剤治療を始める。抗がん剤の身体への副作用、俗にいう表現的な副作用ではなく身体全体を衰退させるという副作用については、急激に影響が及ぶ人や徐々に影響される人などに分かれるように思う。
自分自身は炎症反応を一つのマーカーにしているが、前回の退院時から今回も0.2程度、おそらく安定した状態なのだろう。ガンによる組織破壊があまり進んでいない状態、共存できていると考えている。
5月13日 アメリカのFDAで以前話題になった近赤外線によるガン治療が本格的に認可された。治験に入りそいう遠くない将来に臨床適用されるだろう。そして日本でも小野薬品など世界でいくつかの薬品会社が開発したらしい、免疫細胞の活性阻害を阻害する薬が臨床応用したらしい。ガンはそう遠くない将来解決されそうだと、スタッフに話したが、現実になろうとしている。もう数年の問題だろうが、現時点でも私に効果があるような気がする。世の中では餅屋は餅屋でその分野分野に優秀な人間が多くいる。ガンにウイングを伸ばしてみたら・・・と少し欲張った気持もなくはなかったが、しょせん付け刃、自分の専門は専門で一本道を走るほうがいいと思い知らされた(笑)
そうなると、私たちは、人生そして社会というものを、冷静に考える事が必要になる。生物としての私たち、人間としての私たち、そして群れとしての人間、生物、自然との折り合い、有限な資源、遺伝と進化、今本気で考える事が求められている。
5月12日 今の時点で、ガンが身体を蝕んでいるのか、共存しているのかは分からない。いたって元気である。確かに抗がん剤の副作用としての疲労感はあるが、食欲はいたって旺盛でもある。5月19日から抗がん剤治療のサードラインの2クール目を始める。気持の中では開き直っているというのか、必ず転移がんが見つかって(昨年の夏だが)5年以上は生きるという強い意志があり、抗がん剤がどうのこうのというものでもなく、聞かなければ効かなくてもいいし、抗がん剤がなくとも生き抜いて見せる。非治療でも、免疫療法などを組み合わせて5~10年は生きるしただそれ以上生きて不細工な姿は見せたくないのでそれぐらいでいいと思っている。ただそれだけはきっちりと生きていようと思う。そのためには食べること、生きる強い意欲、そして思考する力と適切な運動が不可欠に思う。
5月5日 医学は科学的に考える事が難しい分野である。科学的に考えると矛盾が多く出てくる。大学の恩師佐藤精一先生がキリスト教の洗礼を受けた時、私は反発した。科学者が宗教に走る事を。佐藤先生は私の反発に笑っていた。彼は科学者ではなく医学者であった。医学者が宗教に生きる事はよくわかる年齢になった。科学は1+1=2である。しかし、医学の答えはいくつもある。それなりの答えは「1」なのだが、見方におれば答えは無限であるともいえる。
今日採血をする。連休明けの昨年5月8日にこの大学病院を訪れた。そして腎盂ガンであることが判明した。摘出の手術を経て抗がん剤治療を7クール目、最初のGC療法と言われる薬を早くやめすぎたように今になると思うが、ただ結果としておそらくそれもOKになるように思う。なぜかと言われるとそれなりに意味があるのだが、おそらく正解の様に思う。
平均値とは違う風変わりな僕である。平均的な面が多くあるのに、なぜか平均値から大きく外れる事がある。最初の抗がん剤治療が3.5クールで終わり次に行った。しかし理屈としては継続しておくほうが短期的な効果としては正解であったように思う。途中で薬を変えた。結構体にはきつかった。術者側の意見とは大きく違った。そして本来はGC療法が効果がない場合行うべきではないと言われているMVACという多剤療法を今始めた。ある程度の時期が来たらなぜこの事が正解なのかを説明してみたいと思う。
5.1 白血球数は3400ほど、副作用として血液の減少が問題の様である。前駆細胞を増やすサイトカインが新たに開発されているらしい。次回からそれを投与するとすれば、外出をしながらの抗がん剤治療が可能になる。
抗がん剤には賛否いろいろあるが、がん治療の多くに利用されている。特に私のような病期のⅣ、言い方を変えれば末期にはそれしかないのだろう。
末期という言葉は何を指すのだろう、これもまた難しい。概念的な言葉の意味は難しい。CRPは0.1、この値は結構指標になるように思う。
2015.4.29 抗がん剤の新しい療法の1クールが終わった。なんとなくそれなりに効果を示しているように感じる。相変わらず元気であるし、CRP値もここ2回は0.5と多少高いがそれほどの高さでもない状態を示している。抗がん剤の効果があれば高い事も推測できる。今朝はウオーキングと筋トレ、以前に比べればそれほど高いレベルでもないが、それなりに体力の縮小を防いでくれる。体力とは 食に休養に適度な運動と説明されるものだろう。
気力は「生命への要求≒社会力-群れる力等々」そして智恵力が、人間の適応力の基本であるならば、生命力の基本であり、治癒力でもある。
2015.4.26 ここ数日 毎朝1.5㎞ほど、病院の周りを歩く。そして筋トレを少しして、ビタミンCを十分に取る、そうしながら次の抗がん剤治療に向かう。白血球の減少と血小板の減少以外の副作用は少し脱毛はあるがさしたるものではない。外に出る事も問題にならなくなるだろう。
薬剤の耐性とは何なのだろうか?生物の「適応性」で片付ける事ができるのだろうか?
その前に抗がん剤でよく言われる事は効果が少ない例があるということであり、私自身も今回のセカンドラインの俗に言う保険適応のGT療法は効果がなかったと評価されている。
4月24日 昨日で白血球数は3650 CRPは少し高い1.1 前回は0.3.
CRPが少し高い。今週の2回目の抗がん剤は飛ばしたので、来週は予定通り行うことになる。今朝からトレーニングを始める ウオーキングを1.5Km、後はスクワット、腹筋、腕立て等々を少しずつ始める。
ヒトの適応力の高さとは何か、智力・気力・体力である。詳細は進化のページで考える。体力は持久力の高さということは、食と適度な運動が必要である。気力は生きる意欲、群れる気持ち。そして最も重要なものは智力、人間しかもたない力である。智力は考える力である。アメリカ海軍の英雄ストックデール中将は7年間ベトナム戦争で捕虜となった。彼は7年間に及ぶ過酷な捕虜生活から生還した。彼は言う、悲観的でもなく楽観的でもなく現実的であることが生き抜けた要因である。「悲観主義者は風向きが悪いと不平を言う、楽観主義者は風向きが変わるのを待つ、しかし、現実主義者は帆を調整して風向きに立ち向かう」現実をしっかり受け止めながら、思考しその状況に立ち向かう。「なぜ私だけがこんなことになったのかと悲観主義者は想う,楽観主義者は何とかなるさと思う、しかし現実主義者は、現実の状況を思考分析し、それに立ち向かう知恵を持って、気力と体力を高め生き抜く」
4月20日ある医者が、「夜が怖い」とテレビで話していた。 彼もガンに罹患し、抗がん剤治療を受けている。彼は、地域の医療に長年尽力し、地域の人たちから頼られて生きてきたという。
僕は全くにその感覚はなくなっている。僕は明日が楽しそうである。それには死も含まれる。科学者の科学者たるゆえんは「好奇心」であり、お医者さんたちとは違う。そして、進化に携わる人間は、生命を、自分の生命を客観的に眺め、理解する。そのテレビでは「講演中に倒れたら格好いい」というセリフがあった。その通りだと思う。明日に向かってどんどんと生きる。今を楽しみ生きる。それで、明日に何があろうと、それもまたおもしろい。60年が人としての一つの区切という、故事は良くできている。あとは、残された時間をどのようにして生きるかであろう。5年か10年か15年か、何年かは分からない。
「いかにして死ぬのか」それは、日々の中で倒れていく、そんな生き方をしよう。講演中に壇上で倒れるのもいい、いつの日か人は逝く、特にがんに罹患した私はその危険性は高いが、いい死に方ができると思う。日々の生活の中で、一瞬にして倒れてそして逝く、多くの人が望む死に方を実践して見せたいと思う。
4月11日 今日で抗がん剤とガンの、第7クール、第一回の戦いが終わるだろう。シスプラチン系のこの感覚は慣れた。前回のGTではぐったりと来たが、今回はファーストステージと同じで、ぐったりではなく、体にきた、持続力がない、という感じである。第1クールで自宅に変えっつたとき、階段をkじゃけ上がった時に感じた持続感のなさである。
10年を生きるその思考は始まったばかりである。急ぐ必要もない、急がなくても体力はまだまだ大丈夫だ。現状はこのような病院と仕事の生活も充実している。副作用時のセミナーの出席が心配でもあるが、うまくクリアーできるだろう。自宅で一人の気ままな生活も面白いが、少し制約のある病室での生活も慣れるといいもので、スパイスが効く。人間には常に「スパイス」=負荷=ロードが必要で、負荷を常に掛けることにより成長し続ける。ステージⅣの状態から10年は生きいるという、科学的な根拠は何か?
悪性新生物がただ成長し続けるということが問題となる。ガン細胞が、ある程度の進行度において、抗がん剤等をもってして、消失する可能性は今のレベルでは大変低い。成長を抑える、そして共生することは基本的に可能なのだろう。なぜ可能なのか?
4月10日 少しだが浮腫が出ていて、体重が増加している。シスプラチンの場合は以前もこの程度の体重の増加はあった。倦怠感はどうしてもあるが、ステロイドを入れると回復する。やはり、抗がん剤治療は体力・気力が基本にあるように改めて思う。今回の抗がん剤は初心に帰るでもないが、腎盂がんには初めて適用された多剤適用だが、このほうが効果があるようになんとはなしなのだが、感じている。肺に転移すると、おそらく、腎盂=上皮がんの傾向を持ちながらも、エピジェニックに肺の環境に影響されてくるので、転移ガンは対処が難しいともいえるのだろう。しかし、何とはなくなのだがそれがある意味転移ガンの弱点であるようにも思う。最後の抗がん剤を終えて、36時間一日半、あと36時間程度が抗癌剤とがんとの闘いのようである。
4月7日 朝
1ヵ月半ぶりの病室である。12時昼食、6次夕食、9時就寝 夜間に1度程度起きて排尿そして5時過ぎに起床し、6時に朝食。
生活リズムとしては病院生活が合っている。共同生活というストレスはどうしてもあるのだろうが、気ままに過ごすことで解消できる。気に入らなければ
病院を移ればいい。今回の2カ月で、この病院での治療も最後になるかもしれない。少し景色に飽きてきた感がある。
10年を生き抜く、それが僕のテーマであり、目的である。何が何でも生き生きて10年をめざそう。
ガンが見つかりほぼ1年が過ぎた。腎臓の摘出から、肺への転移、そして抗がん剤治療、ファーストレインが4カ月、セカンドラインが2カ月、明確にセカンドラインは効果がなかったが、ファーストラインは効果があった。ファーストレインをもう少し継続するほうがよかった感じもする。今回はそのファーストラインに近いまたは同じ薬剤を含む、古くからある療法を2カ月行う。体力も正常に近く戻り、今回の2カ月の治療はそれなりに楽しみでもある。それでいろいろなことが見えてきそうでもある。効果がなければ出どうするか、新しい発想で、この病院から離れて、違う動きをしてみるのもいい。それもそれなりに楽しみである。色々な立場や環境での楽しみ方があり、僕は僕なりの立場と環境で、がんを楽しむ。お金だけはこれまでは縁がなかったが
七難八苦いろいろあった。ただ、それぞれの局面で楽しんできた。そして楽しめた。とんでもない苦しい時期もあったし、死を考えた時期もあったが、それもそれなりに今となれば楽しめたと思う。楽しむことだ、生きることを、今という時間を。
4月3日
3月30日に再度胸部のCTを撮影、小さな影が2つばかり増え、以前からあるガンが2センチ近くになっているとの画像診断だった。
体調はすこぶる体調である。食事、寝る事等々により体力も相当回復した。腎盂癌に最も標準的な抗がん剤治療を受けることにした。どう転移癌をクリアーして行くのか?治療法としては、抗がん剤しか思いつかない。しかし、もう一つの手は免疫力におる改善である。抗がん剤と免疫力は、原則相反するのだろう。それをいかに相関させるのか、そこに新しい治療法があるように思う。確かに抗がん剤の効果は低い、しかし理論的には効果がないことはない。抗がん剤におけるストレスを軽減しながら体力をつけ、がんに相対する方法を自らの体で見つけてみたいと。来週月曜日にまた入院する。今回は原則として2カ月連続の入院になるが、体力そして仕事、生業いろいろな要素を組み合わせながら快適な時間を過ごしてみたい。10年を生きる、10年後は72歳、どのような癌でも10年は生きることができる、その一つの試金石でもある。
3月28日
新しい挑戦のために、10年の時間を全力でかけることが目的になった。10年の時間は、通常の治療では難しいだろう。抗がん剤では数年が限界であり二桁の年数を生き抜けることは考えにくい。自らの進退を鍛え、免疫機能を高め、体力を十二分に高めて生き抜くことが必要であり、受け身の治療ではなく、能動的な挑戦がその基本となるのだろう。
そして2週間ほど前から、いろいろな試みを始めた。
野菜を中心とした食事、ココナッツオイル、青汁、炭水化物を少なめに
そしてビタミンCを5000mg等々
体力をつけるために 運動は欠かせない、そのためには膝を治す
そして免疫力をつけるために来週から「鍼灸」、ひざを治し姿勢を治すための「整体」も始めようと思う。
30日に胸部CTを取る、セカンドラインが利かなかった右肺のガンはどう変化しているのか、小さくなるのもよし、大きくなるのもよし、今は10年を生きるために、全力で思考する。私は切った張ったは嫌いだから、医者にはならず歯医者になり、それも臨床から食いぶちを得るとき以外は郷里を置いた。だから治療の腕は基本的にはそれほどでもないし、知らない。しかし考えることは得意だから、考えよう。どうしたら10年を生き抜けるのか?
それはとりあえずは 1.規則正しい生活=睡眠と生活習慣
2.バランスのとれた食事
3.免疫力を高める行動
4.体力をつける適度な運動
5.ビタミンCなどの摂取 を始める
そして 必要に応じて ① 手術 ②放射線 ③ 抗がん剤 の標準的な治療を最小限に組み合わせる。さあ、10年を生き抜くために多くの命題がある、しかしこのガンに対する思考もまた心をうきうきさせてくれる。
3月22日
昨日は博多に、行き帰りの新幹線で、うとうとしながら想いを巡らした。
ガンの発生メカニズムはほぼわかってきた。遺伝子のスイッチミスがほぼ正解なのだろう。成長期のスイッチのレベルの高低についての検証が私の今のメインの仕事だが、スイッチのミスが何らかのストレスによって生じる、これががんの発生の基本であるとされる。
「がん細胞は、正常な細胞の遺伝子に2個から10個程度の傷がつくことにより、発生し、これらの遺伝子の傷は一度に誘発されるわけではなく、長い間に徐々に誘発されるということもわかっている。正常からがんに向かってだんだんと進むことから、「多段階発がん」と称される。
正常な細胞に決まった異常が起こると、その細胞は増殖し、そこに第二の異常が起こると、さらに早く増殖するようになり、異常の積み重ねにより、がん細胞が完成すると言われている。
がん遺伝子の変化は、特定の蛋白質の働きを異常に強めることにより、がんにつながる増殖異常を引き起こす。したがって、その蛋白質の作用をうまく抑えるような薬を見つければ、細胞ががん化することを防いだり、すでにできているがんの増殖を抑えたりすることができる。
がん遺伝子がアクセルとすると、そのブレーキにあたる遺伝子が、がん抑制遺伝子であり、がん抑制遺伝子は細胞の増殖を抑制したり、細胞のDNAに生じた傷を修復したり、細胞にアポトーシス(細胞死)を誘導したりする働きをする。DNAの傷が蓄積するとがん大変ですので、異常を感知して、その細胞に細胞死を誘導することも必要となるす。このように、がん抑制遺伝子はブレーキの働きをしていると考えられている。
遺伝子の傷は、その突然変異によるものばかりであると思われてきたが、、遺伝子突然変異以外にも、細胞が分裂しても薄まることなく、新しくできた細胞に伝達される異常があることがわかってきた。それがエピジェネティックな変異で、具体的には、「DNAメチル化」と「ヒストン修飾」の変化で特に、DNAメチル化の変化はヒトがんの多くで認められ、多段階発がんのステップとして関与している場合もあることが知られている」
というのが多くの解説書に書かれている内容だろう。それは分子生物学的なレベルでの話である、より実際になると、スイッチミスが重なり、ガンになり、ただ多くのスイッチミスは身体の防御機能がそれを消失させる、抑制遺伝子もあるし異物に対する免疫システムもある。それを逃れたがん細胞が増大化する。
私自身を考えると、成り立ちはそれでいいとして、遠隔転移がある、今のところ肺に限定している。上行静脈で肺に転移し、肺によりフィルターされ転移して発育した状態なのだろう。最後の画像診断での大きさは1センチ強、2か月前からほぼ倍近くに増大化している。その間のセカンドラインの抗がん剤は効いていない。感覚的には、異常に体力が奪われた感がある。薬剤自体は最初の抗がん剤よりは副作用等は少ないとされているが、個体差があるのだろうか、私には大変きつい薬剤であった。
そしてガンが見つかりほぼ1年の時間が経過した。原発部位である腎臓は摘出した。そして抗がん剤治療をする前に、肺への小さな転移が見つかる。そして抗がん剤治療でそのがんは消えるた、しかし、新しい小さな影が見つかり、セカンドラインに入る、しかしセカンドラインは相当体力を消耗し、抗がんの効果はなかった。最後の抗がん剤の投与からほぼ1カ月半、そして退院からちょうど1カ月が経過している。今朝6キロほどをウオーキング、ひざはまだ痛いが体力はだいぶ帰ってきている。
さてこれからどうするのか、標準的に考えられることは抗がん剤の治療でサードラインを設定することである。しかしその効果は、やってみなければわからない。薬剤自体では体力の消耗も激しいし、正常細胞、免疫系を含むシステムも攻撃する。主治医任せにする段階でもなくなった、自分のこれまでの知識を総動員して考察しなければならない。
抗がん剤はどうしても体力を著しく消耗する、30日に胸部CTを撮影するがその画像状況と今月初めの画像の変化により考えることになるだろう。
セカンドオピニオンも必要になるかもしれない。
3月17日
Beam onによる一酸化窒素の産出でのがん治療がどうなるのか、等々を思いながら朝、肺にBeam onを5分ずつの照射を金曜日から始めている。今日で5日目である。膝は比較的快調である。長距離をウオーキングするとどうしても形態的に痛みはあるが、ガンなどは話が違う。一酸化窒素には免疫系への貢献として白血球なども産出し病原菌やガン細胞に対処するメカニズムがあるとのこと。また血流を良くし、もちろんガンの血流も良くなるのだが、それ以上に正常細胞の血流により、正常細胞の活性を高めることは、その不要な細胞を除去する力が働くのだと思っている。
あと2週間ほどで一度胸部CTを撮影予定だが、楽しみである。これはきっと効果を示していると思う。もちろんそれだけではなく、朝の運動や、食事、サプリメントなどの効果もあるのだろうが。