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新しい転移ガンが見つかった

 

 

 8月終わりに抗がん剤治療を開始する時点での二つのガンは約4クールの治療を経て完全に消滅した。しかし・・・新しい転移ガンが見つかった。期待した抗がん剤にも負けないガンが成長していた。厄介でもある。

 しかし、より大きな敵との戦いが新しい年に始まるだけの事なのかもしれない。さすがに腎盂尿管癌病期Ⅳ、5年生存率10数パーセント、といわれるだけあり、なかなか厄介なガンである。私のような変に根所のあるガンもあるのだろう、しかし宿主もひと筋縄で行かない変わり者、さあ、どうするか。

 

慶応の医療情報を見ると以下の様に記してある

 がん(例えば胃がんや乳がん)が血流に乗って他の臓器(この場合肺)に転移しているのですから、現在胸部X線写真やCT写真に写っている以上にがん細胞が肺の中やほかの臓器の中に潜んでいる可能性が高いと考えなければなりません。したがって治療の原則は抗がん薬や分子標的治療薬などによる治療となります。このような治療を行った結果として、肺にだけ数個程度の転移が残った場合にはこれを手術や放射線療法、凍結療法、ラジオ波治療などで治療することがあります。また例外的に肺にだけ転移が出現して(他の臓器に転移が無い)、その数も3-4個程度である場合には抗がん薬などを用いずに、手術や放射線療法、凍結療法、ラジオ波治療などのいわゆる局所治療だけを行う場合があります。このように肺にだけ転移が出現しその数も数個程度という転移の形態を示すことがあるがんとしては、大腸がん、骨肉腫、子宮がん、腎臓がん、乳がん、軟部組織腫瘍(滑膜細胞肉腫、悪性線維組織肉腫など)、頭頸部がん、などがあります。

 

予測が難しい、とりあえずは抗がん剤治療が通常の選択なのだろう。5年生存率が悪い、予後の悪いガンだと言う事は、確かに動きが早い。現状は5ミリ程度だがこのままだと春には、以前の通り1センチを超えてくるのだろう。異なる抗がん剤での治療が優先されるのだろう、セカンドラインの抗がん剤の治療、打ち勝つには体力、気力。

 

 

ガンを考察する  生物学的な視点から 健康医学的な視点から

 

 7月に腎臓を全摘出し、術後化学療法、抗がん剤治療の第2クールがほぼ終わった。

自分自身は、医学という科学をネタに、それを生業として生きてきたのだが、ただ、それはネタであって

医療自体、言い換えれば医療者として生きてきたのではなかった。

 そんな私がガンになった。罹患を聞いたときは、一面ではしごく冷静な面があり、一般の患者としてどうなるのか見てみたいと思った。ガンをめぐっては色々な意見があるのだが、一般の患者に近い立場として、そして基礎科学者のはしくれとして、医療を見つめてみたいと思った。 それが、多少ともガンに罹患する、現状の日本では2名に1名はガンに罹患するといわれている。

そのような方々へ、多少とも参考となれば、また、現状のガン治療への批判をする医療関係者の方がtくぁ、私は医療に関しては保守的である、基礎科学の人間は原則保守的である。保守的な中でとんでもない発想することがポイントなのである。最初から革新的な人間は基礎科学には向かない。ということから、現状の医療を公邸から入る。そのうえの意見であることをまずは理解いただきたい。ガン治療の論争は、表現の自由という面からみればそれなりに結構なのだが、その論争は所詮ガンに罹患したことのない型の論争であるともいえる。罹患した立場からみれば、一面迷惑であることも少なくないと思う。

 否定的な意見を言うなというのではない、私の立場で、患者の立場に立って、医療サイドの論争を分析してみることも、罹患した方々の参考になればとも思う。

なぜガンになるのか、科学的なメカニズムはわかるとして、どうしてそのメカニズムが生まれるのか、そしてここに何が違いガンになるメカニズムが働くのか、個人差、個体差と呼ぶのだろうか、生物が持つ個体差の終局的な疾病が「腫瘍」ガンといえそうである。

個人差は総論としてそれほど私には不思議ではない、成長に法則に同じである。
成長は基本遺伝と環境に左右される。スイッチを押す、スイッチのレベルがある。多くの要素が複合的に絡み合い、また平面ではない脳回路と同じような、複雑な動きをする。

それが、同一のない、個体差を生みだす。すべての生物に共通なのだが、人間は特に複雑化しているようである。

 この複雑化している個体差をあるプロトコール化してゆくことが、今後のオーダーメイド医療の基本になる。それは同時に我々のオーダーメイド保育のもとにもなる。しかし本来はオーダーメイドだったのが保育であり、個性があることになったのだが、時代も変わる。

腫瘍崩壊症候群

 

  腫瘍崩壊症候群自体の話ではない、なぜそれが生じるのか、それが血液がん等20~30%程度、固定ガンに少ない1~数%、に、なぜ生じるのか。個体差、逆に治癒過程の個人差の動きである。

 

 

 

 

余談

 

今回の入院は全く一市民として、医療関係であることなどを関係ない、患者でありたかった。何も語らずに、できるだけ近隣の、大規模の病院を紹介してもらい、治療を受ける事になった。「患者」の立場における事を知りたかった。今回の一連の治療は、この一患者でありたい。次回の治療があるとすればその時はまた違う立場での治療を受ける事になるのだろう。

  そこで感じたこと、知ったことなどを、少しづつ記して行きたいと思っている。

1.大部屋であること

 ある著作で「入院は大部屋が楽しい」との文章を見たことがあり、入院時の選択は「何でも空いているところでいい」とした。検査入院から手術まで6人部屋であった。当初は結構初めての体験だったので楽しんでいたのだが、手術後の6人部屋は精神的に相当くたびれた。狭い空間をカーテンで囲み、気疲れだけでなく、閉所恐怖症に似たストレスを感じさせた。経済的な問題もあるだろう、個室を選択することができるのは限りがある。多くの患者は大部屋である。この大部屋であるストレスをどう軽減させるのか、もちろん心理要因には個人差があり、画一的な対応は難しい。経済的に許すならば個室がいいのだろう。個室になると治療上に問題があるかと言うと、それは全くない様に思う。より機械化を図り、看護師の業務をより合理的に縮小することは基本的に可能であると思う。そして看護師の業務をより高度化して、医療全体の構造を変えることは可能であり、その方向に進まざるを得ないのだろうとも、思う。

 これまでの既成概念を取り払い、病室の設計から治療システムを一新することをイメージすることができる人材の登場だけが新しい上に変わるための条件の時期にあるように感じた。そんな若者の登場に期待しよう。

 

 

 

治療の基本は標準治療   

   抗ガン剤について 

 個人としての想い

 

  ガンの治療に対する様々な意見がある。特に意見が分かれるのは抗がん剤治療である。この議論で重要なそして基本的な点が忘れられがちである。

  私は歯医者にでもなるか、と不純な動機で歯科大学に進んだ。医学部か歯学部かどちらを選択するか、学費が歯学部の方が安すかったので歯学部を選択した程度である。いいかげんなものであった。故に、迷惑をかけない様に、可能な限り歯医者もどきはこれまで避けてきた。

  そんな私だが、大学生活6年間の多くの時間を、薬理学の研究室に入り浸っていた。教授である佐藤先生には多くの事を教えて頂いた。また、研究室では、平松助教授、丸山講師と言う二人の研究者に直接教えて頂いた。お二人は、薬学部を出た優秀な研究者であった。優秀すぎて、今でも薬学部出身と言われる方に会うと構えてしまう。

  3人から学んだことを基本にして、抗がん剤について考察してみたい。まず、薬は「有毒」であることを忘れている様に思う。次に、疾病からの回復の基本は「自己治癒力」であることを常に頭に置かねばならない。この二つの要素が前提として「薬」が使われるということであり、薬はあくまでも「使われる」ものであり、使い方は医療者によるものである。

  抗ガン剤の開発においては、その効果の大小はあっても、効果は認められるものであり、また副作用等も確認されている。むろん全てにおいて完璧かと言われるとそのようなものは無いことも事実である。その事を、攻めるならば、人間社会は成立しない。

  また、容量なども実験において確立しているのだが、それはあくまでも基本的な目安である。多くの薬は、ほぼという値で容量が対応できる。今回自分自身が抗ガン剤治療を受けたことから、その概要を知ると、「薬理学」に触れた、触れた程度である、薬理学者から見れば、素人同然であるが、大変興味を抱くものであって。「薬」らしい「くすり」とでも表現するのだろうか、それは「ガン」と言う疾病が多岐にわたるために、それに対応する「薬」である抗ガン剤は議論を呼ぶのであり、同時に「薬理学」をかじった人間としては、前述したように興味を抱かせる。

 

  「薬」に対する原点的な話から始める。「薬」は毒であるという話である。先述して用に、薬は「毒物」である。しかし、その「薬」は、人間の身体を疾病から守る、疾病から救う、物である。薬は、直接的に身体が疾病から回復する過程に寄与しない。あくまでも間接的な寄与であり、身体の回復は「自己治癒力」によってなされる。「薬」は使わない方がいい、私も賛成である。しかし、薬を津なう方がいい、場合は積極的に使うことで、自己治癒力を高める事に通じるから、「薬」を使うのである。何でもかんでも使わない方がいいのではない事を当り前なのだが記しておきたい。抗ガン剤に反対する論の多くは、一部のガンに対しては抗ガン剤は有用であると述べている。故に、この議論は関係ないと思われるのかもしれないが、おおいに関係する基本である。

  「薬」は経済的に大変重要な産業であることから、ある意味発展し過ぎている面がある。医療者において、大変使いやすいものとなっている。しかし薬の原点は、昔のように、医療者が自ら、患者の状態に合わせて、薬を創薬する行為である。

  

抗ガン剤 2 抗がん剤を考察する

 

 

 

 

薬剤耐性について

 

 薬剤耐性の問題は、ガンの研究においても、ホットなもののひとつである。遺伝子は本質として偏位を起こすものである。これは進化上明白であるとも言える。新しい薬剤に対して、人は特に変異により、環境変化に適応する能力を発揮している。故にガンは変異し、薬剤耐性能力を獲得する。

抗ガン剤 3 抗ガン剤の効果  なぜ私は抗がん剤に効果があったのか

 

 抗ガン剤により、がんの根治を目指す事はいまだに困難であるとされている。そのために抗がん剤治療に対する反対論は大きいし、確かに数字的には効果は高いとは言いにくい。賛否両論がありながら、標準治療として使い続けている。しないよりはした方がいい、程度なのだが。ただ、それが劇的に効果を示す例がある。また、その効果を年齢差や体力差などの全得地はあまり考えられず、従来の統計手法の価値観を基本として、例えば評価を、生存率でみるしか方法もない場合もある。なにはともあれ、一度評価の方法、まったく異なる立場、において視点を変えて考え直さないと、どちらにしろ展開は難しいのではないだろうか。

 それは新薬の開発における原点になりそうに思う。

 

 まずは自身のことから考えてみよう。2クールの抗がん剤治療を経て、CTにおける肺がん=5月26日のPetではなかって、8月の末のCTで出現したとされ、幅は13.5ミリの転移ガンと判断されているの肺がんな5ミリ以下の著しい縮小を見せ、元々あったとされる、扁平上皮がんは消失している。

著しい縮小を見せている転移肺がんも今は自身の感覚的なものだが、ほぼ消失しているように思えるし、他に転移している可能性のある微小ガンも縮小または消滅しつつあるようにも思える身体状況である。

 もちろん明確なメカニズムは分からない。感だけのことなのだが。

 4クール目の第1回の抗がん剤の投与後72時間が経過しようとして、足裏の足先のびりびり感が出てきた。いつもと同じであるが、その感覚の質・量は低下している。これが腫瘍崩壊の代謝物質の影響であるとすれば、効果があり同時にその現象は論理的でもある。

 そういう感覚が事実だと仮定すると、なぜ私がそのまれなケースになっているのだろうか?抗がん剤に限らず、薬には、薬だけではないのだろうが、医療には個人差というものが多く出やすい。

 地域としての保健環境は無視する。エボラなどのケースでは地域の医療環境保健環境は、罹患率や死地率などは環境に創刊することが大きいのだがここでは考えないとする。人を相手に考える場合、マウスとは異なり、同一条件の設定はほぼ不可能jであるし、同一性を求めると、サンプル数は極端に少なくなる。同時に、感情性が仮定に大きく加わることがある。既成概念であろう。死という前提は思考を停止させることもある。ガンはどうしても死が前提となる疾患であり、研究者の思考力が感情やイメージそして既成概念などに影響され下がる傾向があることも計算に入れておかねばならない。

 

 

 

 

 

 

抗がん剤はガンに効くのか?がんに有効なのか?

 結論から先に言うとガンは効く、と言える。

私は非常に効果を見せているし、前回の2クールでの縮小は1/5以上を示している。今回2クールを経るとCTでの判断は来年にはなるが、前回以上の縮小を示しているだろう。基本的には耐性が生じるのだろうが、自分の場合はそれが生じにくい、とはいえ、耐性は生じるのだろうが、それは1年以上先にことになるのだろうが、それ以上に効果の方が優先される感じがする。なぜ効果を示す人と示さない人がいるのだろうか、また、微小なガンほど聞きやすく、血液がんの様なガンには効きやすく、固体ガンには効きにくいともいわれる。そして極端に腫瘍崩壊症候群のような例もある。私も腫瘍崩壊まではいかないが腫瘍の著しい崩壊を示す尿酸値などの上昇を見た。理解しやすいのか、個人の回復力なのだろう。ここで一つ言えることは、抵抗力と回復力がイコールではない事でもある。ガンに対する抵抗力、なりにくさと回復力は違う、では感染における抵抗力と回復力はどうなのだろうか?

 

 

 

 

片やガンによる悲劇的なストーリーが紹介されるのだが、転移に対応してガン治療を進めている方も少なくはない。人間の心理として「余命」というのは心に響きやすい言葉なのかもしれない。ストーリーとして構築しやすいのが「余命」という言葉のようである。絶対的な多数として、ガンとの共生で、生活をしている人がいる。ドラマチックに闘病をして、しんで行く人は少数でもある。それがガンの特徴でもある。自分自身もそうであった。医療という範疇の中で仕事をしているが、メインは「健康」の促進というのか、健やかな成長を目的とする仕事をしていると、ガンに対しての意識は大変低く、上記したようにドラマチックな面を見て過ごしていた。罹患して、初めてガンと向き合うと、罹患前のイメージとは大きく違う。特に抗がん剤の論争には基本的な論点が違うだろうと、思う。

 

 

 ガンが劇的に寛解した例をいろいろな文献等から見ていると、その方法論としては色々なものがある。そのエッセンスをまとめると、「意識」性に行きつく。実際問題として、どの追うな意識性がガンの劇的な寛解に結び付くのかはわからないが、ここでは意識が人間の機能にいかにコミットしているのかを進化的に考えることにする。

 噛めるものが身体を創ると言われる。歯と消化管の形態は環境により効率的に対処するために動物がどのように適応をするのを教えてくれる。このことに見られるように、進化とは環境に効率的に対処するための適応による変化である。意識というものも身体機能の適応の一つであり、人間においてその能力が極めて高度化している。これはあくまでも偶然が生み出していることは言うまでもない。

 意識には様々なアクションがある。考慮すること、理解しすること、納得すること、イメージを抱くこと、そして思考すること、想像することは思考することの一つであろう。この5つに分類される。

 機能性から見ると、最も大きく様々な機能に影響を及ぼすのは思考力になるのだろう。

思考する力が身体を活性化し、例えば、免疫などの機能を高度化する。思考はストレスにはならない、思考は逆により良い負荷となる。

 

 

 ガンを克服する基本は人間が持つ「意識」

 

 ガンという疾病を傍観すると、「生物は常に変化する」との結論に達する。そして、変化は「成長」という基盤の上に立ち、DNAがコピーされてゆく。コピーには環境的要件が常に関係し、同じDNAといえども、コピーは100%コピーではなく、環境により縮小も拡大もあるということになる。

  コピーされ成長するという細胞周期におけるトラブルがガンの原因ならば、それがどの時期いにコピーミスが生じるのは環境要件次第である本来とは異なる方向に成長をし、その細胞の持つ規定とはかけ離れた規定による成長をするようになったのがガンである。逆にいえばそのガン自体を一つの生物とみなし、そのがん細胞のコポーから成長を阻害するのが抗がん剤等の治療法である。

 

 ガンからの寛解をした人たちには、食事を変えることによりそれが実現できたという方も少なくはない。例えば、砂糖である。ノーベル医学生理学賞を受賞したオットー・ワークブルグは1920年代に、ガンは嫌気的呼吸をし、エネルギー獲得のために膨大な量のブドウ糖を消費することを解明している。(この研究がPet撮影のもととなっているのだが)しかし現実問題としてブドウ糖の摂取を少なくはできても、砂糖をとらないだけでそれが実現するとは思えないし、また他のいろいろな食事療法もまた普遍性があるとは思えない。

 大学時代の恩師である故佐藤精一薬理学教授は、科学は普遍的でなければならないと私に述べ、私がなぜキリスト教に先生は入信したのですかと問うと、科学では解決できないことが多くある、宗教はそれを教えてくれる、と述べられたのを思い出す。宗教もまた人間の意識が生み出したものである。そして意識は人間が持つ普遍性的なものである。食事療法が効かないのだというのではなく、食事療法自体は普遍性がないのだが、それに臨む人間の意識が不変を持つのであり、入口はどういうものでもいいのだと思う。

高血圧、糖尿等とガンは何が違うのか?

 疾病のパターンンは大きくは2つある。自己機能疾患と外的侵襲疾患である。この2つは対応が異なる。外敵侵襲の場合自己治癒力とか自己回復力とかがポイントになり、自己機能の低下による疾患は自己治癒力の占める割合は極めて低くなる。

 ガンは自己機能不全疾患の範疇にはいるようだが、実際は発生後外敵侵襲疾患となる。新生物というくらいだから、別の生物となり外敵侵襲になる。この場合は自己治癒力が重要な要素となる。体力、気力、知力の人間の3要素を最大店に利用して外敵侵襲に打ち勝つことが必要である。しかし機能疾患の場合は少し異なり、気力体力は同じだが知力よりも節制力が求められるようである。

 確かに食は体力において大変重要な要素であり、また食欲は生命欲でもあり、食する意欲は大変重要であるが、効果としてはそう高くはなさそうであり、食養生を進めるいろいろな方法論がある、それはそれなりに評価できるとしても、その人なりのという、それ以上でもそれ以下でもないように思える。食は意欲を育てるために自分から求めるものであることが重要である。その上で、バランスの取れた食をとり、楽しんで食し、腹八分目が食の基本となり、その上で、その人が納得する方法で、食に接すればいいだろう。

 体力の基本は、食と運動である。運動も上記した食と同じように適度なものがいい。過度なものはストレスに代わる。楽しみ、バランスのある、そして腹八分程度の運動である。食とまったく同じことといえる。

 体力で重要な要素として成長がある。成長により体力のレベルが異なる。もっとも基礎となる力はほぼ6歳までに決まるのだが、6歳以降も基礎が小さいのに少し無理をした形であることは前提なのだが、その後の鍛錬で基本的な体力は高めることができし、6歳までの成長の劣傾向を100%ではないがカバーできる。

 

 

ストレスはガンの原因か?

 ストレス自体はガンの原因の一つだろうが、それほど大きなものでもない、というのが一般的な答えなのだろう。ただ、問題はストレスとは何か、の命題は多岐にわたるし、自覚しないストレスもある、ストレスは基本的には結果論であり、ストレス反応が出た場合にそれがストレスという。またストレスは精神的な面にとられがちだが、物理的生物的科学的なものもストレスとする。となるとストレスはガンの原因であると、もいえる。

 

 周知の通りストレスには2つある。悪いストレスといいストレスである。子ども達の成長においても、ストレスは常に必要なのだが、いいストレスが必要で悪いストレスはマイナスである。ではその違いは何か?理論的にはハンスセリエのストレス学説が説明してくれるのだが、具体的な生活においてその判断は難しい。

 ハンスセリエは「ストレスは人生のスパイス」であるといい、その長所を述べている。また古から強いストレスによる疾病への治療効果を示す例は事欠かない。非特異的な損傷を引き起こす全身的なストレスが、ガンの成長を抑制する傾向にあることが知られている。抗がん剤はその一種であるともいえる。ガン自体は組織障害に対する局所適応症候群の異常な結果であるともいえるのだが、ストエスと癌の関係について、系統的研究が広がることが求められる。

 

 

 

ガンという病気を 

社会学的に考えてみよう

 

 人間はもっと自然に寄り添い生きていたように思う。生と死はもっと肌感覚で存在していたように思う。「お腹を痛めた私の子供」そんな表現が世の中に出てきたものもう遠い過去でもない。生命がより観念的に語られだした、この言葉が象徴的ではないのだろうかと、思う。生や死が、もっと日常的であった時代のほうが、心は豊かなのだと思う。生や死が、意識性の中で観念的に語られる時、生と死は生活から遠く離れていく。故に心の豊かさと観念性の向上は反比例するようでもある。

 

 

 

ガンは死を想起させる。死を思うと人は思考が停止する。見出し的なキャッチフレーズが、頭を駆け巡る。

日本の年間死亡者の1/3がガンで死亡する、国民の2人に1名がガンに罹る、と。

確かに年間70万人ほどがガンに罹患する。そのうち65歳以下が22万人。この世代で7万名がガンで死去する。

日本の年間死亡数は125万人で36万人がガンで亡くなる。

 ただ忘れていることがあり、それがガンを極めて嫌う風潮にさせる。それはすべての生物が死を迎えるという事実である。

また、2014年の夏には、広島における土砂災害、御岳山の噴火災害などの自然災害で一瞬にして多くの方がなくなっている。

生物は必ず「死」を迎えるという事実、しかしその事実の前にヒトは思考が停止する。 このことは知で説明しても解決ができない。情である。

 

ガンの問題の一つは、ガン性ストレス反応 1

 

 まずはストレスについて、復習しておきたい。いくつかのネット上の文献を拝借して説明する

 

*ストレス反応とはホメオスタシス(恒常性)によって一定に保たれている生体の諸バランスが崩れた状態(ストレス状態)から回復する際に生じる反応をいう。ストレスには生体的に有益である快ストレスと不利益である不快ストレスの2種類がある。これらのストレスが適度な量だけ存在しなければ本来的に有する適応性が失われてしまうために適切なストレスが必要である。しかし過剰なストレスによってバランスが失われてしまう場合があるため、様々なストレス反応が生じる。しかしストレスがある

一定の限界を超えてしまうと、そのせいで身体や心に摩耗が生じる。この摩耗の事をアロスタティック負荷と呼ぶ。

 

ストレスとは、本来は物理学でスプリングのなかに生じるひずみを表現する用語ですが、それが生命に生じたひずみの状態を表現する言葉として使われるようになりました。ハンス・セリエ氏が1935年に用いたのが最初です。

 すなわち、ストレスとは体外から加えられた各種の有害な原因に応じて体内に生じた障害と、これに対する防衛反応の総和と考えられています。つまり、体に悪い結果となる現象すべてを併せて、ストレスといいます。

 ストレスを引き起こすもの(原因)を「ストレッサー」といいます。ストレッサーは、私たちのまわりにいくらでもあります。基本的には、人間の身体に対して、刺激となるあらゆる事物がストレッサーになりうるということです。大別すると、おおよそ4つに分けられます。

(1)物理的刺激

(2)化学的刺激

(3)生物学的刺激

(4)心理・社会学的刺激

 私たちの身のまわりには、これらのストレッサーがたくさんあり、いろいろな形で複雑に作用しています。

 (1)の物理的なものには、寒冷、暑熱、騒音などがあり、(2)の化学的なものには、お酒やたばこなどがあります。お酒やたばこでストレスを解消しようとしても、もともと強いストレッサーなので、かえってストレスは高まってしまうのです。細菌やウイルス感染は、(3)の生物学的なストレッサーです。

 このようにストレッサーが心身にストレスをためると、いろいろな病気を引き起こすのですが、とりわけ(4)の心理・社会学的ストレッサーは、現代社会と深い関わりをもっています。

 

ハンス・セリエは、ストレスを「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」と考え、ストレッサーを「ストレスを引き起こす外部環境からの刺激」と定義した。ストレッサーには、寒冷、騒音、放射線といった物理的ストレッサー、酵素、薬物、化学物質などの化学的ストレッサー、炎症、感染、カビといった生物的ストレッサー、怒り、緊張、不安、喪失といった心理的ストレッサーに分類される。ハンス・セリエのストレス学説の基本は、ストレッサーに曝された生体の見せる有害性に適応しようとする生化学的反応である適応症候群の理論にある。適応症候群は、脳の視床下部や副腎皮質などのホルモン分泌や自律神経系の神経伝達活動により起こる反応で、これによりホメオスタシスを維持することができるとされる。汎適応症候群(GAS:General Adaptation Syndrome)と局所的適応症候群に分けられる。

セリエは、全身適応症候群として3つの時期に分けた。

警告反応期

ストレッサーに対する警報を発し、ストレスに耐えるための内部環境を急速に準備する緊急反応をする時期である。警告反応期は、ショック相と反ショック相に分けられる。ショック相では、ストレッサーのショックを受けている時期であり、自律神経のバランスが崩れて、筋弛緩・血圧低下・体温低下・血液濃度の上昇・副腎皮質の縮小などの現象が見られ外部環境への適応ができていない状態と言える。このショック相は、数分〜1日程度持続する。一方、反ショック相ではストレス適応反応が本格的に発動される時期で、視床下部、下垂体、副腎皮質から分泌されるホルモンの働きにより、苦痛・不安・緊張の緩和、神経伝達活動の活性化、血圧・体温の上昇、筋緊張促進、血糖値の上昇・副腎皮質の肥大・胸腺リンパ節の萎縮といった現象が見られる。

抵抗期

生体の自己防御機制としてのストレッサーへの適応反応が完成した時期で持続的なストレッサーとストレス耐性が拮抗している安定した時期である。しかし、この状態を維持するためにはエネルギーが必要であり、エネルギーを消費しすぎて枯渇すると次の疲憊期に突入する。しかし、疲憊期に入る前にストレッサーが弱まるか消えれば、生体は元へ戻り健康を取り戻す。

疲憊期

長期間にわたって継続するストレッサーに生体が対抗できなくなり、段階的にストレッサーに対する抵抗力(ストレス耐性)が衰えてくる。疲憊期の初期には、心拍・血圧・血糖値・体温が低下する。さらに疲弊状態が長期にわたって継続し、ストレッサーが弱まることがなければ、生体はさらに衰弱してくる。

ハンス・セリエは、副腎を摘出したマウスは、こういった3つの反応は起こらず、副腎皮質から出るステロイドホルモンが重要な働きを示していることを証明した。

 

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