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ガンになったら  明日があるさ

 

 

 

 国民の二名に一人が罹患し 三名に一人の死亡原因がガンだという。僕もガンに罹患した。ただ至って元気である。ガンは、そう簡単な病気ではないことも確かである。身体の60兆ともいわれる細胞の一つが何らかの原因で異常が生じ長い年月をかけて増殖する疾患である。60兆の中の一つの異常が生き残る、免疫機能も対応しきれないこともある。

 「ガンは不治の病ではない。」「早期ガンのほとんどが治癒する。」と、記載しているガンに関する本は少なくない。しかし、ガン患者は早期ばかりではない。

 ほとんどの本には抗がん剤は効かない場合が多い、耐性を持つ、延命効果である等々、見方によれば否定的に聞こえる。

 病気がこれこれの場合、5年生存率はこれこれである。だったら、私は○○%の確率で死ぬのか・・。

 早期ガンの人も、末期がんの人も、心配はいらない、明日がある。

 3名に一人がガンで亡くなる。30%である。2名に一人がガンになる、50%である。10名に5名がガンになり3名程度がガンで亡くなる。2名はガン以外で亡くなることになる。平均寿命が男性で80歳近く、単純に平均的な寿命として考えるとして、ガンで亡くなる場合も平均寿命に含まれるということでもある。

 話は簡単で、数字のトリックでだまされるのだが、またノンフィクションなり、フィクションなりで、物語を創るネタとして「ガン」は情感を盛り上げやすい。

例えば、自然災害や事故による死亡等は話を創りにくい。そのために比率としてはそれほど変わらない、言い換えれば後から述べるが、ガンという病気がそれほど悲劇的な疾患でもないのである。平均は80歳ごろであることには、他の疾患や事故等々ともそれほど変わりはない。ただ、物語性が語られやすいということなのである。さて副作用はやはりこたえる。抗がん剤は、噂通りである。もちろん副作用が強いことは、効力が強いことでもある。薬理の基本である。それに打ち勝つ、生きる力が、あれば、抗がん剤が著しく効用を示す15%程の中に入る。いろいろな調査をまとめると、感覚的には65%がガンから回復する。ただしここで前提となることは、ガンは慢性疾患であり、糖尿や高血圧等々と同じような疾患であり、感染症とは違うとの認識である。悪性新生物との名称だがから感染症と同じ分類に入り、治癒というのが語られるのだが、原則はあくまでも慢性疾患で分類すべきである。自己疾患なのである。自己疾患は共存して生きるべき疾病である。これが前提といえる。もう一つは、統計的な問題である。人間を対象とする統計処理は、難しい。条件の一定化が困難である。生存率や治癒率という表現をするが、状況環境が全く異なる。感覚的には65%ほどが回復すると述べたが、これも自然科学的な統計処理は難しい、観念的人文科学的な統計処理と言い切ってもいいのだろう。65%に入るのかどうかなどほとんど意味をなさない。極端に79歳でガンに罹患したとしよう。一年度になくなる、死亡はガンが原因とされる。80歳で同様にガンに罹患し81歳で同様に死亡する。2名はガンが死亡原因で、平均80歳にて死亡したことになる。交通事故で昔は1万人の方が死亡した。今でも数千人が死亡する。御岳で、広島で多くの方々が若い命を落とした、そしてその方の寿命も平均にカウントされている。同様である。ガンが物語性を高めてくれるだけの話だと思う。

 先に65%が回復するという話に戻る。これは貴方をさしているのではない、あくまでも無機質な科学の話である。ある文献に抗がん剤の使用で15%程度が完全寛解すると記してあった。恐らくそんな感じがする。あとは再発などをしている言う。それらはある意味当たり前といえば当たり前なのだろう。それを持って抗がん剤が効かないという議論を効くが医療らしい。自然科学ではない、人文科学の議論だと感じさせる。

 抗がん剤を議論する場合、大きくは二つのテーマがある。一つは効果があるのかどうか、もう一つは耐性の問題である。

 抗がん剤は15%程度に極めて強い効果を示し、どの病期であるかはあまり関係しない。病気が浅い場合は、手術的に帝王できるので、あまり議論は要らない。その意味は自然治癒力、身体能力の問題である。ひとまずそれはおいて、殆どの抗がん剤は効果を示す。しかし、副作用も強い、副作用には意識的な副作用が多く論じられるが、細胞単位、意識としてわからない副作用もある。その意味は正常な細胞が抗がん剤に耐えるレベルを超えてしまう。逆にはそれが、検査値には出ないが、生体活動としてのマイナス要因になることである。ガンが縮小しても、残る限り抗がん剤のマイナス要因に負けては意味がない、再発しより増殖度を増す。マイナス要因にならない身体力がなければならない。外科治療は、手術に対応できる、身体力があれば良い。抗がん剤治療は抗がん剤に対応できる身体力があれば良い。残念ながらこの力を持っているのは15%程度にしか過ぎない、それは加齢によるものかもしれないし、環境要因かもしれないし、成長における基礎力要因なのかもしれない。将来に向かい、抗がん剤でのガンの治療を目指すならば副作用をなくすのか、身体力を上げるのか、どちらかである。しかしその前に、哲学ていな命題がある。ガンは話は面白い、国民の2人に一人が罹患し、3名に一人が死亡する、人の心を引き寄せる、抗がん剤は使うな・・・、そんな情感的な話もまたおもしろい、しかし、根源的な命題の議論ではない。私たちは、いかに生き、如何に死ぬのか、その議論がされていない。

 次に耐性の問題である。耐性も基本的には同じ論理の議論である。生体活性力の問題である。ガンはその能力が極めて高い。適応力に富んだ細胞であるということでいい。しかし正常細胞においても、人は本来適応性が高いのだから、高い細胞であることから、もちろん存在している。これまで子ども達の成長に関する研究や調査に携わっていると、15とか20とかの数字がいろいろな局面で重要な数字だと感じる。良いも悪いもこの数字である。抗がん剤で完全に効果を持つ人も15~20程度、耐性に打ち勝つ人も15~20程度、後の80~85は抗がん剤の縮小を見ても再発の危険性があり、耐性が生じる。では耐性について考察してみよう。医学としての耐性を我々は環境適応と呼ぶ。生物は生きるために適応する。適応できない生物及び種は絶滅する。環境に適応した生物はその環境に強くなる。だからガンなどの場合耐性ができると、抗がん剤が効かなくなる。単純なメカニズムである。環境適応は生物の奉納であり、すべての生物はその能力を基本的に持っている。性も、死もそのひとつである。

 耐性に対処するためには、環境適応を不可能にするしかない。本来生物が持つ能力なのだから。環境適応は二つに分けることができる。一つは居住環境であり、もう一つは食環境であり、その変化に適応できるかどうかが生物史である。

 

話は極端なほうがおもしろいし、極端なほうが記憶に残る。疾病においても同じであり、悲劇的な話のほうがおもしろい。「ガンになりました」そういうと、殆どの人の表情は変わる。確かに疾病の中では「死」に近い病気だとはいえるだろう。しかし、ガンという疾患の特性があり、その特性の他の疾患との違いの中で混合させてみていることがある。ガンはある意味現代病であり、その原因の一つは長寿もう一つはストレスであろう。ストレスに対しては反論もあるだろうが、一般的なストレスではなく、原点的なストレスを言うものとすれば、反論はないだろう。本来ストレスはそういう意味でつかわれるべでなのだろうから―余談であるが。日本ではほぼ半分がガンに罹患し三分の一がガンで命を終わる。ということはガンに罹患した場合の60%は、ガンが原因で死亡することになる。しかし、前記したように、原因の一つが長寿であることがポイントになる。さてガンになったら、がテーマである。どうそれに向き合うかだろう。先述したように、ガンは、ネガティヴにさせ、死を連想し、思考を停止させる。私は、人間という生命体の最も大きく強い機能は、思考力であると思っている。その思考力を停止させてしまうということは、例えば、思考力のない動物が一気に消化力を低下させた場合、どのような状態を生じるのだあろうか。おそらく生命の維持に大きく影響を及ぼす頃になろう。同じである。思考することの重要性が人故にある。思考する力を鍛えておくことが健康に大きく影響をおよぼす。それが人間という生命体の原則的なことだろうと思う。さて話は元に戻る。ガンに罹患した場合、60%がガンが原因で死去する。簡単な理屈でいえば、平均寿命が80歳とすれば、ガンの患者の60%は80歳ごろにガンで死去することになる。後の40%はガンでない疾患等で80歳ごろに死去している。もちろん平均値であるために、それは個人差があることは前提であるが、世の中がすべて統計的な思考をするならば、上記した内容も間違いではない。ということは、殆どのガンの罹患者においても、平均的な寿命まで生きるということであり、ガンは死が隣り合わせというものでもないのが分かる。どのような疾患でも同じで、疾患は常に死と隣り合わせなのだが、ガンの場合は、多くの人の興味を引くストーリーとして成り立たせやすい疾患である。抗がん剤の副作用を見ても、何かドラマチックな面がある。まず、この点をみておく必要があり、後余命何ヶ月とか何年とかいういのだが、科学としてそれを説明することはできない。余命数日なら分かる。経験則として私もそのような場に多くたちあった。しかしそれでも明確にはわからない。

 

 

二人に一人がガンになるという時代。ガンになることが誰にでもその機械があるし、それにどう対応するのかを、自分がガンに罹患して、同時に罹患した患者さんに出会い、いろいろなことを知ることができた。

  私は医療人でもないし、医療の評論家でもない。しかし、医療関係に籍を置いていることは事実だから、客観的にガンをみることができる、ガンの罹患した患者さんを見ることができる、大部屋への入院は、本当にいい経験になり、ガンに罹患すること、手術―抗がん剤治療を経験し、たんにガンの経験だけではなく、人生に得るものが本当に大きかった。ある意味神に感謝でもある。

  ガンについていろいろな書物を見かける。治療側の専門家、医療の専門家、罹患者等々

私の立場はそれとも違う、そんな私がガンについて記してみよう。何らかの手助けにそれがなれば幸いなのだが

 

 

ガンという病気を 

社会学的に考えてみよう

 

 人間はもっと自然に寄り添い生きていたように思う。生と死はもっと肌感覚で存在していたように思う。「お腹を痛めた私の子供」そんな表現が世の中に出てきたものもう遠い過去でもない。生命がより観念的に語られだした、この言葉が象徴的ではないのだろうかと、思う。生や死が、もっと日常的であった時代のほうが、心は豊かなのだと思う。生や死が、意識性の中で観念的に語られる時、生と死は生活から遠く離れていく。故に心の豊かさと観念性の向上は反比例するようでもある。

 

 

 

ガンは死を想起させる。死を思うと人は思考が停止する。見出し的なキャッチフレーズが、頭を駆け巡る。

日本の年間死亡者の1/3がガンで死亡する、国民の2人に1名がガンに罹る、と。

確かに年間70万人ほどがガンに罹患する。そのうち65歳以下が22万人。この世代で7万名がガンで死去する。

日本の年間死亡数は125万人で36万人がガンで亡くなる。

 ただ忘れていることがあり、それがガンを極めて嫌う風潮にさせる。それはすべての生物が死を迎えるという事実である。

また、2014年の夏には、広島における土砂災害、御岳山の噴火災害などの自然災害で一瞬にして多くの方がなくなっている。

生物は必ず「死」を迎えるという事実、しかしその事実の前にヒトは思考が停止する。 このことは知で説明しても解決ができない。情である。

 

 

 

 

 

 

 

ガンには体力と気力と知力

 

 

 5年生存率が10%程度のガンが発症し、左側の腎臓と尿管そして膀胱の一部を摘出、その後に肺に転移ガンが見つかり抗がん剤治療を4ヶ月、そのガンが消滅したら、また同じ肺に小さなガンが見つかった。さて、また異なる抗がん剤での治療である。

 不思議と勘が当たる。先回の抗がん剤治療は3.5クール、途中で終わった。自分では体力が落ちてきた実感があり、止めることは正解であったと感じていた。画像診断で対象となったガンは消滅していた。目的は果たしたそして体力を温存できた。そしてCTにより新たなガンである5ミリ程度の小さなガンだが、放置すれば成長の激しいガンだろう。異なる抗がん剤でたたきに行く、体力・気力の勝負であり、そして知力という人間の基本的機能が重要である。昨年末の退院当初は診療所の近くの坂を上り、昼食を取りに行くのも休み休みであった。正月を経て体重も増え、坂道も一気に上れるようになった。

 体力向上は負荷を与えることが重要であり、同時に食することである。そして考える事それが知力、どう対処するのか、それにより気力が充実する。言い換えれば体力は食と負荷、気力は知力から、故にガンに向かうには体力と気力と知力。石に齧りついてもという事もなく、楽しくガンとの闘病を楽しもう。外出をして仕事をする、生活の質を上げると言う事が言われるが、今は闘病の質を上げる、闘病を楽しみ、とりあえずは2カ月程度だろう、そしてその効果次第での手術と進むのだろう。春4月まで、最初の予定通りの、第一期の抗ガン治療である。

 

 ガンにならないために、もしガンになった時のためにはほぼ同義語である。最後はなにはともあれ体力勝負である。ガンになる確率を下げるのも体力だし、ガンになっても治療は体力次第である。ガンになるかならないかは運次第、なる時はなるしならないときはならない。僕はいかなる事例も事象も、科学的論理で説明できると信じています。もちろん偉大なる自然は私たちの科学的論理は常に後追いです。しかし、どのような自然現象も、いつかは必ず論理的に説明できるし、その努力を続けなくてはなりません。そのような立場から、ガンに罹患した自分自身を振り返り、またガンというものに対しての予防を考えてみたいと思います。統計的には日本国民の2人に一人がガンに罹患します。特に日本ではガンの罹患者が増加傾向にあるともいわれています。長寿がその基本的な原因とも言えますが、原則その原因はストレスです。ただしここでのストレスを、俗に使われる精神的な歪みととらえるのではなく、ストレス本来の意味である、身体的な歪みとしてとらえてください。身体的とは精神的肉体的、機能的な身体のすべてとします。そしてその身体に何らかの歪むがかかるものをストレスとします。ゆったりとした時代や社会の変換は進化の中で、環境適応で生物は対応してきた歴史を持ちます。しかし、近年になり、人間が関与するもの、ある意味では地球全体すべてですが、このゆったりとした変革ではなく、急激な変化を地球社会に生じさせ、それは人間に対してもストレス=ディスストレスとしてマイナスな状況を呈していると言えます。特に、日本は人類発祥の地アフリカから東の最先端にあり、それは進化の最先端に位置しています。進化の最先端とは文明等の高低の意味ではなく、残念ながら広がりを表す言葉でしかすぎません。広がりの最先端にいるだけです。これは文明としてはいい意味でも悪い意味にもなります。いろいろな地域でいろいろな最先端にいる人たちがいるのですが、そこに至る経過において、それぞれが独自性を持ちます。日本もまた独特の文明を持ち同時にストレスに弱い体質の社会を構築していると言えます。

 

 

 

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