面白き人たちがいて 面白き人生がありて もう少し生きてみようかと思う
ガンの罹患は自分には面白き事であった ともすれば人生に飽きそうになるのだが、命のやり取りは面白き時間でもある。
医療人という言葉には抵抗はあるが、一応その分野に近い活動を日々している。
臨床家でもないし、医者でもない、歯医者ともいえない。
そんな僕がガンに 罹り、ガンとともに生きている。
僕はガン 末期でも元気
僕の生業は マウスピース歯科矯正治療の独自の移動方法を開発し、歯列矯正ではなく、容貌観そのものを「美容」として改善したり、アンチエイジングとして利用するマウスピース用矯正装置を利用した治療の計画を立案したり製作をしている。また小児育成及び小児口腔育成を提唱し、世界で初めての小児用口腔育成装置を開発し、また製作をしている。その流れの中で、食育や口腔育成と心身の成長の問題だけではなく、子供たちのアレルギーから姿勢そして熱中症から便秘等の問題などを研究、そしてその中で子どもたちの成長に不可欠な良いストレス=負荷について研究しそれを生活や治療の中でいかに利用するかも研究してする在野の研究者でもある。そして上記の開発や研究において最も役立ったのが進化の研究であり、近年「進化医学」が見直されているが、僕が上述した中で行っている研究が「歯科学」ならば「進化歯科学」も研究のテーマの一つでもある。
そんな僕が腎盂尿管ガンになった。そして摘出手術を受けた。腎盂尿管ガンだから手術=摘出をするという判断は簡単だった。その臓器の解剖学的な構造から見て摘出しか選択肢はなかった。問題はそのあとに生じた。転移性の肺ガンが見つかった。そして抗ガン治療を始めた。抗がん剤治療にも抵抗はなかった。僕は元来「見たがり、知りたがり、やりたがり」でなんでも経験してみたい人間である。悪評高い「抗がん剤」を経験してみたいと思った。
ファーストライン・セカンドライン・サードラインそしてまた最初の抗がん剤に戻り約10クール、1年が経過した。その間に、ガンに関する資料や文献を読み漁った。40~50冊の文献等を並行して読んでいくのが特技で、と言うよりも一つ一つなら飽きてしまう、単なる飽き症なのだろう。歯科矯正を始める時も、独学だった。日本にある文献や資料をすべて読んでやろうと、一年間やってみると、ほぼ専門家になる。もちろん臨床は経験がなく、理屈だけの専門家でもある。その後診療をしながら臨床も経験してそれなりのことになったのだが、ガンの場合、臨床経験は、僕は歯科大学を出ているから、「口腔癌」と言う分野なのだろうが、これからも臨床を経験することはないだろう。ただ、患者の経験をしている。
上述したように専門は生物科学であり、基礎医学も結構自信がある。小児の成長学もある意味専門であり、ストレスから進化歯科学・進化医学とウイングは結構広い。そんな僕がガンについて考えてみた。患者と言う立場で医療を見ることができた。
抗がん剤治療を行いまだ肺にはガンがある。
治癒力と治療力を想う
私は、腎盂がんが肺転移している病期Ⅳのガン患者である。7月に腎臓の摘出をして、8月にすぐに肺に転移がんが見つかった。通常の見方をすれば、転移が早すぎる、状況としては良くないのだろうが、昔から何でも経験したい、見たい知りたい方である。新奇性の遺伝子が多いのか、それは後天的なものなのか、それも興味深いが、抗がん剤治療を経験してみるのも自分自身では大変興味深い事であった。一年間は標準的な医療を黙って受けてみようと考えた。死ねばそれもいいしと、1年間の抗がん剤の入院生活を続けた。そして1年がたった。効果はあったのだろうか?分からない、消失はしていない。転移肺がんはまだ数個あるが、自覚症状はない、生きている。そして元気でもある。 ガンもまたおもしろい、思考するにはいい題材である。ガンとは何にか、生物体における悪性の新生物と定義される。そして生物体は動的であることがガンを生じる基本である。動的とは細胞が新しく置き換わることであり、老化によりその速度や精度が落ちてくる。テルメアの限界が120歳ごろと言われる。ガンもまた生物科学で語ると興味が尽きないのだが、ガン治療に対するいろいろな話を聞いていた。ガンもどき論争から、抗がん剤論争そして治療論等々。いろいろな文献や本も読んでみた。のめりこむように面白いものはなかった。なぜそれらの本は、僕を引きこまなかったのか?ガンに関する話で面白いものはほとんどない。ただ、それなりに話題にはなる、トマトを食べるとガンが改善するらしい、そんな本でも売れる。生命にかかわることだから、多くの人がガンに罹患するから、それ以上でもそれ以下でもない。 1年の標準治療を経て、改めてガン治療を思考しようと思う。治療開始から1年はたってから思考しようと思った。1年で死んでは思考も何も、しゃれにもならない。1年考えた事をまとめながら、新たな治療に向かう。生命をかけた仮説であり、実験である。若いころに戦場やスラム等々を駆けていた頃と同じようにわくわくする。今は老いた。しかし、心はあのころによく似ている。生命をかけて、明日に向かう。智恵を出せ智恵を出せである。自分自身を何かと言われれば「臨床家」でない、治療行為は嫌いである、「研究者」かと、問われれば、研究者ではない、ポリシーとして「論文」は書かない。単なる評論家である。言いっぱなしの評論家であり、気楽な傍観者でもある。しかし自分がガンに罹患した。ガンというものと正面から向きあることになった。 ガンの罹患を告知された時の心理的な動きも経験した。抗がん剤の副作用も経験した。末梢神経の、自律神経への副作用も経験した。骨髄への副作用、白血球の減少、通常は自覚症状はないのだが、その時の身体状態や回復するときの状況の何とも言えない違いもなんとなくわかる様な気がする。 そして医療をする側の動きも観察できた。 週刊文春の8月13・20日号にガン治療における論争が掲載されている。ガンの無治療法の近藤さんに対するディベートである。これまでの色々な人と近藤さんのディベートはほぼ近藤さんの完勝であり、このディベートも然りである。基本的なところで話は咬み合わない、というのも、医学は自然科学の範疇にはいるのだが、医療はあくまでも人文科学であり、医学と医療を同じとしている事に問題がある。お二人のディベートは医療科学の中での論争である。あくまでも人文科学の論争なのである。自然科学はシンプルである。しかし人文科学は複雑である。色々な見方や価値観が基本となる。そこに論争を持ちこむ場合、勝ち負けはほぼないと言っていいのだろう。医療界の不祥事と言う話も出てくる。薬品会社との癒着等々なのだが、その前に自由主義社会である以上、医療も経済活動の一つに組み入れられている。誰もが、常に経済は頭にある。しかし、誰も経済を優先させようとはしていない。効きもしない分子標的薬を効くかのように論文を作っている事はありえない。結果としてそうなる事は、いろいろな面で世の中では多くある。ただ、医療界は、他の業界よりも経済等にまつわる不祥事が多い事も事実である。医師と名のつく人間は金と名誉が大好きかもしれない。少なからずいる。 どちらが科学的に正しいのかという命題を置くこと自体が間違っている。例えば週刊文春の文頭の話を見ると、がんもどき論に対するディベートでは、「早期胃がんを発見した時治療するいいがあると証明するには生存期間が延びたり、がんが治るというメリットを患者さんに示す事が必要だと思う。手術をしたから寿命が延びたという確としたエビデンスはお持ちですか?」と問い、それに相手の大場さんは「そのデータは現実的ではないし、比較試験としては存在しない。」と答える。近藤さんは「そうなると、医者はエビデンスがないのに手術をしている。その点を患者さんに明確に示す義務があるのでは」と畳みかける。そこで大場さんは医の倫理を持ちだすしかなくなる。ここまで来ると完全にディベートとしては大場さんが不利な判定になる。読者の多くは、近藤さんに軍配を上げるだろう。 医療関係者には、文句言い、イチャモン付け、が多く存在している。変なプライドがそうさせているのがよくわかる。 近藤さんのガンに対する基本的な論理は、なるものはなり、ならないものはならない、が根本である。どこかで聞いた事がある論理である。進化論での「今西進化論」である。哲学として、言い換えれば人文科学としての今西進化論には大賛成である。しかし、自然科学はそれを実証しなくてはならない。近藤さんの論も同じで、ならないものはならないのだから治療しても意味がない。その通りだと思う。大場さんは、成るものはなるのだったら、なったものにはどう対処したらいいのか、問うといい。治療による延命は難しいのだから、結局は放置しておく方がベターなのではと、近藤さんは答えるのだろう。近藤さんの論にもエビデンスはない、彼はいろいろな数値を示すのだろうが、それはあくまでも人文科学的な数字であり、自然科学としては受け入れられない数字である。ほとんどの罹患者は命が惜しい。可能な限り長生きがしたいと思っている。多くの医者は平均として、もちろん特別はあるが、ガンを治癒させる事は難しいと思っている。しかし、罹患者の長く生きたいという希望に正面から取り組む、それが医の倫理であると信じて、治療に向かう。近藤さんは、無理なものは無理だからあきらめて生きている間の充実に取り組むほうがいいという。これは人文科学の論争であり、心感(こころかん)のディベートである。そこには答えはない。 あるレベル以上の状態のガンを治す、また治すに近い状況に至れば良いのだろうが、悪化する、又はるレベル以上のガンになると、治療をしてもさほど延命効果があるとは思えないデータがめだつ。現実はディベートとして近藤さんの勝利であるが、抗ガン治療の取り組む人も大多数いる事になる。自分が抗がん剤治療をしてみて、初めてわかるのだが、藁にもすがりたいと言う罹患者の気持ちが、医者の放っておくと命取りになりますよ、との親切心が、近藤さんの論に賛成しながらも多くの罹患者が抗がん剤に走る気持ちも理解できた。 では、この人文学的なディベートに於いて、その考え方のどちらに組するのか、と言われれば、近藤さんとは反対の立場に立つことになる。近藤さんには近藤さんの人生がある、私には私のあるいてきた人生がある。近藤さんがどうなのかは知らないが、私は敗北者である。住友銀行の偉いさんに、「あなたは社会の落後者だ」と言われたぐらいだから、敗北者なのだろう。敗北者は敗北者なりに、「明日の永遠」を信じ続けたいと思う。明日に向かってもがき、あがきたいと思う。近藤さんのように、ダメなものは駄目だから、残された人生を見つめましょう、などは、私は嫌いである。生きている限りは明日が永遠である事を信じて、もがきあがき、ぼろぼろになっても前向きに倒れこみたい、私は未熟であり、私は弱き者である。近藤さんの論理は敬意を表する、その意見を尊重する、しかし賛成はしない。生き方の違いである。 私はもがきあがく方を選択する。そして人類の英知を信頼する。人類はいろいろな危機を乗り越えてきた、もがきあがき、無念にも倒れた多くの屍を越えてきた。私は人生の落後者であり、敗北者であるのだろう、でも人が好きだ、人を信じる。生き方を命題とする議論はやめよう、あがきの議論をしよう。生き方の議論は別の土俵でしよう。確かにガン治療は自分が受診してみて混沌とした中で「標準治療」が叫ばれている。医療界の中身や、学界、標準治療の作成、歳を取ると見える事も多くなる。すべてがいい塩梅で進むものである。逆に、いい加減と言い換えてもいい。故に、反近藤的な論理にも肩を持つ気もない。ガンの治療法には多くの議論をすべき点がある。その議論をしよう。ガンの制圧には時間がかかるだろう、もがきあがこう、そのもがきあがく議論をしよう、そこでぶつかり合うのもいい、それは人類の英知を信頼し、明日の永遠を信じることが前提にあるならば、殴り合いの議論も楽しい。 抗がん剤やガン治療に反対する人は言うだろう。「無理なものは無理、あきらめて残りの人生を有意義に生きるべきです。」と。おっと、私はそんなに人間は出来ていない。とことん、もがいてあがいてやろう、志半ばで倒れようと、次に来る人のプラスになるだろう、私の屍を超えて、次なる人々は高みに登れるだろう。しかし、本文は決して「遺言書」ではない。もがき・あがき、生き抜くためのマニュアル書である。未完に終わる可能性もあるのかもしれない。しかし、遺言書ではない事を明確に記しておきたい。 いろいろな文献や本も読んでみた。のめりこむように面白いものはなかった。なぜそれらの本当は僕を引きこまなかったのか?ガンに関する話で面白いものはほとんどない。と先述した。心から絞り出した言葉で書かれたものが少ない。もうくだらない議論はやめにしよう、あがきの議論を本気でした方がいい。医療関係者も多くの方がガンに罹患しているだろう。その体験を心の声を叫ぼう。生き方の違いに、抗がん剤などの自然科学っぽい話を持ち込んでも仕方がない、明日のために何をすべきなのかを語ればいい、それでも医者という人種には斜めに構えて語る輩は沢山いる。斜めに構える事がカッコイイと思う人種である。そんな連中は無視すればいい、必ず淘汰される。正面から立ち向かい、倒れる事を恐れてはいけない、真剣に語ろう、心の声で語ろう。無治療である事などは人生観の違いで議論の余地はないと思う。土俵が違う。それを議論しても建設的ではない。一言締めくくると、医者と言うよりも医療界には、彼の様な人種は確かに少なくはない。そしてそのような正確性と言うのか心理に陥るエピジェニックな環境因子を観察するのも楽しいのだが、ほとんどの場合よく似た人生を歩んでいる。 ヒトはガンと聞くと、悲劇的なストーリーが頭に浮かぶ。自分が経験してみるとそれほど悲劇的なものでもないのがわかる。ガンに関する数字やらストーリーが独り歩きしているのがわかる。1年にわたり、成書やら教科書やら文献やら、可能な限り読みまくった。僕は特技があり、4~50の本を同時進行で読む。特技と言うと聞こえはいいが、一つ二つの本を続けて読む根気がない、飽き症なので、多くの本を並行して読む。 今それなりにトップランナーだと自負しているが、マウスピースによる成人対象の治療システムや小児口腔育成と保育成長学等々、世にある文献をすべて読んでやろうと思いその中からいろいろなアイデアが生まれた。同じようにガンについても、1年間いろいろと読んでみた。それなりにへ理屈だけは専門家以上になったと思う。 そのような1年を経て ガンはそれほど悲劇的な話でもなく、そして疾病医療とは異なる思考が必要であり、同時に結局は「治癒力と治療力」と言う疾病医療の基本に帰ってみるものだと思う。 その前に 医療否定本、薬否定本等々がよく売れる。事実は多くの人々が基本的には「医療」に批判的な感情を抱いているということである。自分が患者と言う立場に立つとなぜ医療に対して多くの人々が否定的なのかがよくわかる。否定論に惹かれる気持ちもよくわかる。疾患に対する時、医療側からの治療と患者自身の治癒力がその対処の両輪である。しかし、治療に対する批判や不安・不満が基本的な深層心理にあり、それは治療側への不満と言うよりも、それももちろんあるのだろうが、治療そのものへの不安・不満と言えるものでもある。しかしそれを取り除けるのは、はやり医療側であり医療側の力具合である。それを治療力と言うことにする。治療力は 言葉力 表情力 そして 知識力からなる。(熟練の技は要らないのかと、問われるかもしれないが、外科的な技も結局は知識による。もちろん不器用さはどうしようもない奴もいるのだがそれは論外である)この3つの要素が治療には不可欠であり、患者の不安・不満を解消する。私は科学が事象をすべて説明し、それは論理的に実証されると思い続けてきた。その考えは基本的には変わらない。ただ、今は「心理=意識」の身体に及ぼす影響が多大であることが分かり始めた。これまで私たちは、心身と言いながら心と身を分けて考えてきた。そして人間のすべての臓器は有機的に関連しあい成り立っている。あえて医学とは呼ばず身体科学と言うことにするが、身体科学はその進歩の中で各部分を独立化して考えてしまった。特に、心=心理=意識は、身体とは独立したものとして考えてしまった。心理=意識は身体の器官の一部であり、特に人間においてはその他機関に対する影響は多大であり、それが人間の適応性の、順応性の高さの源になっていることを忘れていた。人間の適応性・順応性や器官の相関性等々については別に述べるとして、この心理=意識の身体に及ぼす大きさを再認識する必要性がある。そして本題に戻れば、治療側をみるとそれは言葉力・表情力そして知識力である。これらは後天的なものであり、育ったそして生きてきた環境が大きく左右する。先天的なものはほとんどない。今になって思えば、免許さえ持っておけばいいと、医学部・歯学部を計りにかけて歯学部を選んだのだが、歯医者になっては見たが、向いていないことは自分でわかった。この治療力は全くない、私の言葉やこ難しい、表情は感情的である、知識力だけは自信はあるが言葉力になるのだが説明力がない。そんな私が臨床から離れるのは必然でもあっつた。そしてガンになり闘病生活を続けている。これも今になって思うのだが、昔からいろいろなことに気づく性格である。髪型が変わった、アクセサリーが変わった、化粧が変わったから、自然や空間の変化に人一倍気付く。しかし構成力はない、と言うことは短詩文芸が向いている。そう育ったのだと思う。ゆえに医療の問題点についても気づく。もちろん好みもある。私が客観的にみて合格点を付けることができる医療関係者は、そう多くはない。まじめに努力をしている医療関係者は結構いる。しかし、まじめに努力するから合格点かと言うとそうでもない。まずよく言われることだが、社会性がない。自分が若いころ「社会性がない」と言われた。反論もした。しかし今になると、確かに社会性がなかったと思う。僕は医療から離れたからそれがわかる。18歳の大学入学、いや医学・医療を志した時点から、独自の世界に入って行く。20数歳の若者が先生と呼ばれ、年配者から頭を下げられる。お互いを「ドクター」と呼び合う。名前がわからなければ「先生」と言っておけばだれかが振り向く、僕は少なくとも名前を覚えるのが礼儀だと思っているが、覚えきれない場合は適当に「先生」と言う、適当に、である。あくまでも僕の場合だが「○○さん」と呼ぶ時、経緯を持っている。相手がだれであろうが、である。しかし「○○先生」と呼ぶ時は気持ちの中ではばかにしている。僕の友人に教育者がいる。彼は国家試験を通ればすべて教え子を「○○先生」と呼ぶ。彼の気持ちはよく理解できる。彼が教え子を「○○先生」と呼ぶ時のトーンが素晴らしい。いい味のあるトーンをしている。だから教育者としての彼は尊敬している。彼が教え子を○○先生と呼ぶときに違和感はない。ある時私を見てもらっている大学病院の教授も同じトーンで「○○先生」と医局員を読んでいた。これもいい味がした。教育者としての彼は尊敬で来ると思った。先生と呼び合う医者にも優秀な人間は少なくない、上記した二人も、声のトーンだけでいい医者だと思う。しかしだ、しかしそんな人間はそう多くないことも確かである。確かにこいつは大丈夫か、と思う人間も医者には少なくない。一人ひとり見るとレベルの低い人間は少ない。しかし、社会性がない医者が多いのも確かである。それが医療に対する批判が多い一つの要因でもあろう。治療力は言葉力であり、表情力である。知識力は後で述べる。二人の言葉の響きを先述したが、言葉は言葉自体の表現力と同時にそれを伝える力が必要である。上記した2人について一人は緩くからの友人だが、あまりよくは知らないが、良いトーン、いい響きのある言葉力があるのがわかる。同時に表情力がある。言葉力と表情力は表裏一体であり、どちらかが欠けても駄目である。このような二人ならば安心して任せればいい。それで間違いがあればあきらめもつく。しかしなかなかこのような人間に当たることは少ない、そのようになるにはある程度の年齢も必要になる。しかし若い場合もある。その判断基準の一番は、「礼儀正しい、言葉が正しい」ことである。この二つがないと言葉力も表情力もつかない。社会性があると言うことは、礼儀正しく、正しい言葉を使えることである。
ガンと生きる
これまでの医療は 疾病医療と予防医療が車の両輪として動いてきた。新しい概念では、この二つの概念は片側の前後の輪となり、もう一側には「健康医療」の二つの輪、成長健康と健康再構築が前後にくる。この健康医療が新しい視点である。
今の私は 腎盂がんを発症し 摘出手術を受け 間もなく肺への転移がんが出現、標準治療と言われる抗がん剤治療を1年ほど継続して来た。現状のCTの画像では の状況にある。
1年間 ガンに関する成書やら教科書、文献等を読み漁った。私には変な特技があり40~50の本を並行して読む事が出来る。歯科医師国家試験も同様で、ほぼ3カ月しか勉強をした記憶がないが、基礎医学から歯科臨床 科目としては20ほどあるのだろうか、教科書をそれぞれに3カ月に分けて同時進行で覚えて行く、試験対策の場合はまる覚えでいいのだから、読みながら試行する作業よりは楽である。
もう10数年前になるが、初めて矯正治療を行うに際して、国内にある歯科矯正の成書やら教科書やら、それなりの文献など 1年をかけて全部目を通した事がある。1年365日、マジで読む込むと、何十年やっている、専門家にも、知識だけだが、負ける事はなくなる。ガンにおいてもやる事は同じなので、大変そうには見えるが、1年間やってみると、ガンに関しては、理屈はほぼ見えてくる。
これから「ガン」を語るに際して、この1年間読み漁り、思考した知識、そしてもう一つ、強い味方は、抗ガン治療を自分の体で経験したことである、百聞より一見に如かずである。
ガンの話に行くまえに、私の専門を少し紹介しておくと、理解しやすいかもしれないし、反論をしやすくなるだろうから、簡単に記しておくことにする。
生業としては 成人用マウスピース矯正 歯列矯正としての装置ではなくオルソぺディクス=顎骨造成装置としてのマウスピース矯正装置を世界で初めて開発し、その製作指導を行い、同時に新しい装置の開発を行っている。もう一つは、世界で初めて口腔育成の概念を考え、そのための負荷型装置の開発と小児用マウスピース装置を開発した。そしてそれに必要な装置の製作指導と新しい装置の開発を行っている。それに加えて、成人のリファビリテーションデンタルの概念を考え、頚部顎口腔系に起因する疾患の治療と口腔育成における医療行為=医療行為を、現場でたまではあるが従事している。
研究課題としては ① 進化歯科学 進化における歯科学的な視点におけるアプローチの研究を行っている。 ② もう一つは 成長と負荷、恒常性と負荷 その意味と意義の研究である。その流れの中で、成長における様相やら、劣成長のメカニズムそしてそれにより生じる疾病のメカニズムなどの調査研究を、全国乳幼児大規模調査として、若い保育の研究者たちとぼちぼち行っている。
20歳の半ばアメリカ・シカゴにわたった。そこで二人の偉人とであった。一人は チェット・アンソニー・フランク、稀代の入れ歯師である。もう一人は、ハンス・セリエ、「ストレス学説」の生理学の大御所である。お二人とももう80歳を超えていたのだろうか、食事やお酒を飲みながら、お二人にはいろいろなお話を伺った。十分に英語を理解したわけでもなかったが、20歳半ばの青年には大きな道標になった。この二人の様になりたい、その気持ちは今も持ち続けている。まだまだ遠い存在なのだが。
さてそんな私がガンになり、それも転移がん ステージで言えばⅣ、末期と言えば末期とも言う。
そしてガンについて語ることになる。
詳しくは厚労省のHPを見ればいいのだろうが、日本人の平均寿命は、男性で80歳程度女性は85歳に手が届くらしい。日本人の死因は 1/3はガン、簡単には 男性で見ると 平均的には80歳で死亡し、3名に1名が、ガンで死ぬと言うことになる。人間と言う生物は、何差まで生きる事が出来るのだろうか、テロメア説では120歳ぐらいが限界だと言う。しかしこのテロメアの減少をなくす事が出来れば無限に生きる事が出来ると言う理屈なのだが、「老化」とテロメアはまた違う。
ガンにはほぼ2人に1人が罹患するともいう。平均値で考えると、確かに私はガンなのだから2人に1人に入る。そして80歳ぐらいが平均寿命だとして、いまは62歳であと18年ほど生きてガンで死ぬ確率が高いということになる。後18年ほど、長いのか短いのか、今状況からすれば、上記した研究なり生業なりを続けて5年程度 10年程度をどう生きるのだろうか悩むところでもある。
高三の夏休みに父に聞かれた「どの大学に行くのか?」哲学者か文学者か、はたまた物理学者にでもなるかな!「それには相当な頭がいる、そして頭がなければ食えるかどうかわからない、とりあえず歯医者になれ、頭はいらないし、食いっぱぐれがない」 多くのお医者さま方には相当頭にくる言葉だろう。
私の父親は、仮に医療界全体を敵に回してもそれほど気にしない。第2次大戦時に、一兵卒として5年命のやり取りをしてきた男は強い、忘れられない思い出がある。かっての阪急ブレ-ブスのホームであった西宮球場、日本シリーズを観戦に出かけた。当時の阪急の上田監督のご招待であるから父親の席は、一塁側スタンドに座る私にも見える、バックネットの特等席である。日本国歌が流れた、ほぼ全員が起立していた。父親はその中で知らん顔をして新聞を読んでいた。「靖国神社に行った事はあるの?」「ない」、右翼の街宣車の前を知らん顔をして歩いて行く。四国の善通寺連隊を「クジラ部隊」と称したらしい。武漢総攻撃でほぼ全滅し、26名が生き残ったとか、真偽のほどは知らない、父はその中の一人だったとか。いのちのやり取りを若い時にしている。食えぬ男である。
父のそんないい加減な言葉を真に受けて「分かった、どこの大学にすればいいかなあ?」「お母さんが歯医者だから歯医者にでもなっておけばいい。」そしてそれから6カ月後、歯科大学の入学試験を出来レースがごとく受験した。受験する大学は母親が決めた、医学部も歯学部もどんな大学があるのかも知らなかった。
上記の数字と事実はしっかりとしたエビデンスのあるストーリーである。しかし数字とイメージのレトリックでしかない。ガンになると5年生存率と言う話が出る。その生存率に一喜一憂するのだが、78歳の人が10名ガンになり、平均的には80歳で亡くなるのだからほぼ全員が死亡すると、生存は2年未満が100%亡くなった事になる。同じガンで、60歳で10名が罹患したとする、80歳まで生きた。平均的な寿命になくなる。生存は20年生存率は100%、このガンの2年生存率は50% 5年生存率は50%である。78歳の人は、生き延びる確率は50%かと思う。60歳の人も同じである。
人間の多様性は動物界では珍しい。言い換えれば環境に左右されやすい体質であると言える。なぜ体質に左右されやすいのか、逆に言えばそれが世界中に現生人類が広まった源でもあるのだろうが、基本は直立二足歩行にあり、同時に直立二足歩行が生じせしめた、前頭葉の拡大にあるとも言える。ではこの二つの要素が、人間の多様性言い換えれば適応性を生じたとするならばそれはなぜそうなったのかを考察する必要がある。
まず前頭葉の拡大は言い換えれば前頭葉が理性の座とするならば、知識の格段の向上である。知識の向上は、環境変化に打ち勝つ知恵を人間に与えた。前頭葉が多様性を生んだのではなく前頭葉が知識を作りその知識が環境変化に打ち勝つ状況を生み出し、人間は多様になった、適応になったと言える。では2足歩行の関係性は、と言うと、前頭葉の拡大にはこの直立二足歩行が不可欠になる。詳細はこのテーマではないので避けるが、人間の多様性は上記の流れで生じている。多様性は適応性と置き換えてもいい。環境への知恵が身体状況を他の動物にはない適応性を生じせしめたのである。故にそれは複雑性になったことも事実であり、その複雑性が「ガン」のような障子を生じせしめる基本的な原因の多くであるとも言える。この進化的な考えにはガンを志向するためのいくつかのヒントがると思う。
先に述べたが人間はガンになりやすいというテーマ、もちろん人間は長寿であるという点もあるのだが、それ以上に複雑性がポイントとなり、日本は進化でいうならば最先端を行く人種であり(但しそれが優秀であるとは根本的に違う)故に日本にはどうしてもガンが多くなる傾向がある点、また抗がん剤の体制の問題もこの複雑性にある点。これは細菌等の問題よりももっと耐性や効果のあるがんの違いなどに出てくるのはガンが同生性であること。【寄生性の反対の意味の造語である】等を志向するテーマとなる。しかし、逆にそれを治療と言う面から見たとすれば、人間の特性を利用して治療を行う思考のヒントにもなると言える。
もともと一つの幹であった生物は長い年月をかけて環境により進化=変化し続けてきた。確かにガンは遺伝のミスであり、それは遺伝子がるすべての生物に、遺伝子があるから生物と言うのだが、共通のものであるのだが、人間だけが得にガンに罹患しやすくなっている。それは長寿が大きな要因だと言われるが、それは二次的なもので、複雑性が要因の一次的であると思う。
人間の複雑性と疾患への罹患のしやすさ、また成長レベルが低くなりやすい、この仮説を今後立証して行くことも私の仕事になるのだが、今は仮説段階とはいえ、それを前提にして、治療や成長を考えたとしても、良い方向に動いても悪い方向には動かないだろう。故に仮説をここでは述べてゆく。