気がつけば、60数年を生きてきたようだ。さしたるものでもないが、親から受け継いだものもすべてなくし、何の財も残さず、何ら功績も名誉もなく、面白しろ可笑しな人生だった。61歳の春に「ガン」に罹患した。高齢者の病気ですからと言われ、初めて自分が高齢者である事に気付いた。そして理屈ではなく感情として「死」を意識した。過去を振り返れば、何も無かった。それはある意味自分が求めた人生でもあった。自分自身としては満足をしている。気がつくと、死を意識した時に、家族と仲間がいた。これまで何も残してやれなかった。3ケ月と少し病院で過ごした。自分の人生に一つの区切りがついた。これからは、 家族の為に、彼らの為に生きてみようと思った。そして過ぎ去った60年の時間を、気の向くままに残しておければと思った。家族と仲間が、私のあるいた、そんな大したことはない人生を、へえーっと、感じてくれるといいかと思い。名誉も剤も信頼も診療も何もない人生だったが、うらぶれた人生を自分は気に入っている。願わくば、後ろ指をさされ、うつろに海を見つめる老人になりたいとは思うが。
思い出の記 2014年
○○ラインとF氏・O氏・そしてA氏
2014年の春に、腎盂がんになった。その前から調子は悪かったが、それなりに騙してきた。ACOのトラブルから1年それなりに軌道に乗る中で、本格的に後継を考えようとした。今になればこれが間違いだった。ACOの時も同じだ。事業自体には興味はなかった。故に事業の後継を考え具体化しようとした。そして2回失敗した。不徳の致すところである。1回目はS家族にすべての事業を譲ろうと思っていた。そして今回はAそしてOの子息に譲ろうとした。
経営は○○ラインに託し一切口出さないでおこうと思った。自分たちで作り上げる、その中で引き継いでいけると思った。しかし、その任にあたったFもその力はなかった。ただ、適当に目の前をやり過ごす、要領でこなそうとする、ほぼ失敗する。多額の未払い金と借入金を生み出しただけで、後はご多分に漏れない愚痴である。この輩は最後は愚痴で終わる。Sも同じであった。Oがまさしく同じ道を歩いている。逃げる、言い訳をする、人の悪口をいう、少しは立ち止り向ってみようとしないのだろうか。そして、もう後継者はいらない。私しかいない、私が倒れた後は、松明を引き継ぐ若者は必ず出てくる。それを創る必要もない、自然に出てくるものである。
オールクリアーオルソジャパンとSさんたち
事実を言うと、悪口と取られる。矜持として悪口は言いたくない。一昨年の春である。思いもよらない事件が起きた。そしてほぼ2年がたとうとしている。みんながマイナスになった。それを批判し、私を誹謗中傷した人たちも、今裁判を続けている。彼らもまた、マイナスであった。誰もプラスにはならなかった。いや、私にはプラスであったかもしれない。事業だけを見ても、いろいろと見直すきっかけとなった。装置自体は相当レベルが上がった。もちろん、迷惑をかけたことにはお詫びをしなければならない。残った私がお詫びをするしかない。マイナスは相当な負荷がかかった。しかし人生には負荷が必要であり、負荷が成長をさせてくれる。
迷惑をおかけした方々には別に補わしてもらうとして、プラス面は少なくなかった。いい負荷、いいスパイスになったように思う。
その前年より、報酬は貰っていなかった。事業はS家族のものであった。私の存在が邪魔ならば、それなりに言ってもらえれば、事業さえうまく行くなら引くこともやぶさかではなかった。前年の11~12月ごろから私を排除しようという行動が始まっていたという。私を過大評価しすぎだと思う。簡単にはこの問題は私を排除しようとして、シナリオが崩れた、それが真実である。Sさんそれよりもその家族、そして元旦那と野からの経営コンサルタントの創作したシナリオが崩れただけのことなのだが、彼ら自身にそして顧客にご迷惑をかけ、またそのシナリオに途中参加した取り巻き、またその取り巻きに関わった人々、それにそそのかされた人々、誰もがプラスにならなかった。シナリオを描いたSさん、そしてM君に近い人ほどマイナスが多かったのだが・・・時間は過ぎて行った。
相当の悪口は言われた。Sさんたちに、その取り巻きに。反論はしないでおこうと思った。家族も相当悪口を言われた。子ども同士が同じ学校の卒業生である。何も言わずに凛としていよう、人を恨むのはやめよう感謝しよう、そういった妻に感謝する。誹謗中傷の中心であったM氏と裁判をしている。確かに、彼らの誹謗中傷はビジネスとしては相当マイナスになった。しかし、言っても仕方がない。現状を認識し、前に進むしかない。前に進めば、それなりの答えがある。どんな状況にあっても前に進めば、摺れなりに答えが出る。過去を振り返りもめるもの楽しくもない。同じ話を、Sさんにしたことがある。元旦那との離婚でもめた時である。もめにもめた、その旦那と組んだのだから、世の中は奇なりである。
しかし私はSさんには感謝している。Sさんがいたからこの事業は前に進んだことも事実である。Sさんとはいろいろと話した。それが力になった。トラブルも悪口も、すべて私の中では終わっている。裁判をしているM君そして彼の取り巻き、彼から去った人たちも少なくはないらしいが、すべての人に、私の中では終わりを迎えている。
別段この事業で、名誉欲も金銭欲も、どうのこうのということも、もともと私の中ではない、今、もう一度前に立とうとは思う、それは自分のためではなく、この事件があったからできた、一生の友人、AやH、そして私を信じてくれる若者がいて、私を信じてくれる歯医者さんがいる、そのためにである。幸いにしてガンになった。素晴らしい経験をした。私は生き延びた。以上に抗がん剤が効果を見せている。こういう例もまれにあるらしい。それもまた素晴らしい経験であった。
Sさん、M君を含め、彼らがこれをみることもないのだろうが、彼らと再び交わることもないだろうが、もし、もし偶然に出会ったら、笑顔ですれ違おうと思う。人生はそれでいいのだと思う。素敵な日々と友と仲間を与えてくれたのだからと、心から思う。悪口を言わず、弁解をせず、逃げずに凛としていよう、と。時間が過ぎて、それが本当に正解だったことが分かった。
彼らの誹謗中傷はいろいろなところで聞く。それに一一反論するのも大人のする事ではないように思う。黙っている方がいろいろといい事が多い様でもある。
子ども達のボランティア活動と私
私は30歳の数年間「セーブザチルドレンジャパン」というボランティア団体の立ち上げに現場の責任者として関。全く動かなかった活動を力づくで0を1にした。自分でもよくやったと思う。しかし結果として理事会から罷免されたようになり、石持て追われる、ごとく去った。事業における借金が残った。直接私が関わったわけでもないが、責任者として責任は取らねばならない。私に責任のすべてが押し付けられた。それから今日まで、同じような経験を3回した。すべて逃げずに立ち向かったことだけは言える。
0を1に引き上げることは本当に大変だと思う。でもそれは楽しい、抵抗勢力だらけである、反対はだれけである、その中で1に引き上げる、やりがいのある仕事であり、報われることはない。必ず、石持て追われる、果実はその反対をした人たちが持ってゆく。果実や名誉を求めるならしない方がいい。自分がいかに楽しめるか、しかそれに立ち向かうモチベーションを維持することはできない。
今、子ども達の成長に関する仕事をしている。セーブ・ザ・チルドレンでの活動が大変力になっている。神は決して見捨てないものである。僕にも多くの非がある。迷惑をかけた仲間たちにも頭を下げなければならない。石持て追った人たちを恨むこともない、後悔もない。誰よりも子供たちのために力をつくしたのだと、神の前で胸を張れる。人生の終わりに近づく中で、後悔のない人生であったと思える。名もいらない、財もいらない、命もいらない、これからも面白おかしく生きていきたい、
これまでの人生で後悔もないのだがから、これから同じように面白おかしく生きて、いいのだろうと思う。ただ、想うことがあるとすれば
妻に対してこれからの生き方の中で違う生き方をしなくてはと。
アメリカに居た頃
友、CMは同じ時期にアメリカに居た。事実を語ると彼に迷惑がかかることもあるので、本当のことを述べるのは、もう少し先になるのだろう(笑)誰かが、私のアメリカでの滞在は、虚偽であろうと、述べていたのだが、確かにその傾向はある。というのも、あまり人に自慢して語れるような内容はなく、箇条書きしたことは事実なのだが、、内容と言われると、恥ずかしい限りであり、自慢ができるようなことはない。その男の誹謗中傷も、中身と言われれば、そうかもしれないと、笑える。
25歳、大学を出てほぼ1年、卒業をする前からアメリカに行きたかった。母親が歯科医であり、生活を賄っていたので、アメリカに行く費用まで願えるほどの状況ではなかった。卒業前に卒業後の就職を探していたときのその目的は、お金である。誰もが勉強したい、技術を上げたい、と思っていたのだろうが、私はお金であった。アメリカに行くお金を稼げる就職を探した。そしてそれに合う歯科医院に勤務し、お金をため、アメリカに行った。
留学などと言うほど、まともなアメリカ行きではない。前年に行った歯科後の研修旅行で、知り合ったフランク先生に、その時にアメリカに期待が受け入れてくれるか…、とお願いし、翌年に彼のもとにわたった。
大学時代からアメリカに行きたかった。なぜアメリカなのだろうか?子ども時代の環境にあったように思う。両親は、田舎のインテリであった。海外の文学書があり、毎月ハリウッド映画雑誌が送られてきて、リーダーズダイジェストが、父親の愛読書であり、またメジャーベースボールの情報が入ってきていた。もちろんテレビで映画なりメジャーをみることはあまりない。父の世代はアメリカと戦った。でも、心はアメリカへの憧れが常にあった。その想いが私にも伝わった。
何が目的なのかと聞かれても、何もなかった。アメリカに行きたかっただけであり、憧れの「アメリカーナ」だけだった。CMとともに不良な生活だった。フランク先生のオフィスだけは真面目に言った。そこで多くのことを得ることができたが、それに気づくのは相当後になる。いろいろな人にもである。それが自分に大きな意味があったことに気づくのも、後であった。
思い出の人たち
60年の人生の中で、思い出深い人たちがいます。良きに付け悪しきに付け、私の人生に大きな影響を及ぼした方々たち。中学生時代の酒飲みの二人の先生、高校時代の農業高校の用務員の先生、大学時代の恩師、シカゴでの出会い、著名な方々は避けて、名も無い私にとって大事にしたい出会いの先生方から書き始めてみたいと思います。
僕にとって人生に最大の影響を与えたのは、父親でしょう。変わった人生を歩き、今齢93歳、介護施設の人気者で、今も元気に暮らしてます。父親の事はまたじっくりと話してみたいのですが、その次に人間としての形成期に、この人が最も渡しに影響を与えたと思います。名前は出してもう差支えが無いでしょう。沼島彰、父親の親友であり、小中学校の教員、僕は彼から直接学んだことはなく、私の通う牟岐中学校に教頭として赴任し、2年ばかりの時間をご一緒しただけです。その2年は中学野球部の監督・部長、そして僕は1年生から2年生。彼を一言で言い表すならば「酒飲みで、情熱家、一直線に人生を駆け抜けた人」 元阪急の上田監督、ゴルフ界では尾崎兄弟、彼の教え子たちはいろいろな分野で活躍してきました。「高校野球の蔦先生、中学野球の沼島先生」当時の徳島、田舎では野球が全てと言ってもいい時代でした。私も彼のもとで野球をしました。でも教え子と言うよりも、父の親友と言う目で彼を見ていましたし、彼も私を親友の子と言う目で見ていたように思います。
彼との出会いは、すでに50年ほど前になってしまいました。脳裏に2つの記憶があります。一つは、夏休みの早朝のグランドで、先生と奥さまと二人でグランドを整備している姿でした。夏休みの朝練習は7時前から始まります。早めに行って・・・何かしようと思ってたのでしょうか。私がグランドの近くに行くと、誰も来ていないグランドで、二人で一生懸命、ほうきを持ってグランド整備をしていました。子どもたちがやってくる前に、子ども達のために、子ども達に分からない様に、夜明け前から整備をしていたのでしょう。 もう一つは、私が育った牟岐町の沖に、出羽島という小さな島があり、そこに小学校がありました。彼は私のいた中学からこの小学校の校長へと昇進しました。私が中学3年最後の夏の大会の前に、この小学校のグランドで合宿をしました。練習が終わると、島の湾でみんなで、小学生もみんなで泳ぎます。私たちが泳いでいると、先生と私の父が、白ふんどしに、頭を日本手ぬぐいで覆い、湾に入ってきました。そして、豪快に二人は泳ぎだし、あっという間に湾から出て、太平洋に向かって泳いでゆきました。 なぜかこの二つのシーンがあれから50年近くの時間が経過したのに、脳裏に映し出されます。なぜ忘れられないのか、その二つのシーンは私の人生に大きな影響を与えたのでしょう。
ゼロ、いやマイナスから今
この10数年で、ゼロいやマイナスになった時期が2回もありました。1回目のマイナスは、バブルに浮かれて全く異なる世界に手を出したことからのマイナス、この時は多くのものを失いました。そして1年前のマイナス、金銭的には大きくマイナスをしましたが、このマイナスは、かけがいのない多くのものを得る事が出来ました。双方ともご迷惑をかけた方々もいました。それは一生背負って生きては行きたいと思います。
実際には二つのマイナスですが、その意味や状況は大きく違いました。1回目のマイナスそして2度目のマイナス。2回目のマイナスの事情は、後になりほとんど分かりました。なるほどなあ、2回目ですから冷静だったという事もあるのでしょう。時間がたち状況が分かれば分かるほど、人間社会の、人間関係の妙味と言うのか。2つの出来事を可能な限り客観的に見れるだろうか、と思いつつ、少し暇になったのをきっかけに、過ぎ去った時間を気まぐれに追う事もいいのだろうと。
今、ネットでは、私や日本マウスピース矯正協会にたいする誹謗中傷が、数名の歯医者さんがネットに載せられたこともあり、2度目のマイナスの話の方が面白く読んで頂けるのかと思います。しかし、誹謗中傷への反論、そんな面白くも楽しくも無い事をしたいとも思いませんし、ただ、彼らの誹謗中傷よりも、事実の方がもっと面白くもあり、興味深いのでしょうが、あまり深く触れると、さし障りのある方も多く、誹謗中傷を繰り返す彼らも含めて、みんな私よりも長く生きるでしょうし、生活もあるでしょうから、もう少し時間がたってから話した方が、関係した色々な人たちにも迷惑がかからなくて、良いように思います。
話は違いますが、この誹謗中傷については、一応裁判も行っておりますが、基本的には そのサイト自体への何らかのアクションは起こしていません。というのも、若い時期から「多様性」という言葉が好きで、みんなが一つの方向に進む、みんなで渡れば怖くない・・、的な事があまり好まない事があります。誹謗中傷はいかがかなあとは思いますが、それはそれぞれの考え方でしょうし、それをどうとるかも人それぞれであっていいのだろうと思います。その意味で、それらをご覧になった方がどう思うのかも大変興味深いという事があります。それは別にして、批判は常にあるべきでしょう。批判・反論があり、その批判反論をされる方が新しい考え方なりを創りだし、またそれを超えるものが創造されて、文化なり文明なりが発展してゆくことが人間の歴史の基本です。若い方に申し上げるのですが、私を超えて行け・・・ではない、私を踏みつぶして行け、だと。批判・反論はどんどんとされるべきであり、それに責任を持って新しいものを作る出せるかどうかが、その批判・反論をした人間の能力でしょう。批判の為の批判、反論の為の反論も、面白いと言えば面白いのでしょうが、それだけではつまらない感じを持ちます。どうせなら思い切って批判・反論して、それに挑戦する事の方が、たとえ敗れても人生楽しいかと思います。
真実は、常に一つしかないのでしょうが、その理解はいろいろとあります。しかしどこまで行っても真実は一つしかなく、神のみぞ知ると言う事でしょうか。
ただ、面白いのは、誹謗中傷したり、それに裏で協力する人間にほぼ共通のものがある点です。これまでの経験から、数度誹謗中傷に会いましたが、小さい事を入れると結構人生では多い方、子どもの時から目立つし、そのような言動が多いのかもしれません、反省ですが、正面からそのような誹謗中傷を言われることは全くないことでしょう。そして必ず自己弁護と正義感を振りかざすことが共通しています。
しかし、そんな連中も恨む気にはなれない。今回の裁判でもいろいろと反省をすることもあるし、今後の人生に参考となることなどもあり、また彼らとの過去の交流の中でも同様に、良しにつけ悪しきについて、いろいろと与えられたものは多いと思えば、怨むほどでもないように感じてしまう。真実を言えば、かられが本当に傷つく、私は誹謗中傷に負けない意思を持つと自負しているが、彼らがそうとは見えない、真実は腹にしまっておこう、それを言うのはプライドが許さない。
時間が解決してくれるものです。一歩一歩、歩き続ける事です。振り向かず、また諦めずに、歩き続ければ必ず明日が来る、その通りだと思います。先に述べた大きくは2つのトラブル、その内情を曝け出すのではなく、そのトラブルから得たことは、歩き続けること、努力すること、逃げないこと、必ず朝日が昇ります。自分自身が色々なトラブルを経験して、机上の空論ではなく、経験からそう思います。
