ガンを思考する
今、携わっている子どもたちの成長に寄与するファビリテーション・メディスンはおもしろい。それに負けずに面白いのがアンチエイジング・メディスンである。この二つは自分のライフワークでもあり、わくわくする中で思考をくりかえして、毎日を過ごしている。特に人間の持つ身体の基礎力とは何か、それはどのようにして獲得するのか、ファビリテーション、機能を獲得するの意、の根本となる基礎力を考える、そしておそらく「さまざまな負荷」によりそれを獲得する、それに遺伝はどう関与しエピジェニック(後天的)な意義はどうあるのかだろうか。エピジェニックは負荷により生じるのだろう、ディスキングはどの程度の負荷がどのようにして身体の基礎力を作り、機能を獲得するのだろうか?そんな思考をくりかえしている。
私は、腎盂がんが肺転移している病期Ⅳのガン患者である。7月に腎臓の摘出をして、8月にすぐに肺に転移がんが見つかった。通常の見方をすれば、転移が早すぎる、状況としては良くないのだろうが、昔から何でも経験したい、見たい知りたい方である。新奇性の遺伝子が多いのか、それは後天的なものなのか、それも興味深いが、抗がん剤治療を経験してみるのも自分自身では大変興味深い事であった。一年間は標準的な医療を黙って受けてみようと考えた。死ねばそれもいいしと、1年間の抗がん剤の入院生活を続けた。そして1年がたった。効果はあったのだろうか?分からない、消失はしていない。転移肺がんはまだ数個あるが、自覚症状はない、生きている。そして元気でもある。
ガンもまたおもしろい、思考するにはいい題材である。ガンとは何にか、生物体における悪性の新生物と定義される。そして生物体は動的であることがガンを生じる基本である。動的とは細胞が新しく置き換わることであり、老化によりその速度や精度が落ちてくる。テルメアの限界が120歳ごろと言われる。ガンもまた生物科学で語ると興味が尽きないのだが、ガン治療に対するいろいろな話を聞いていた。ガンもどき論争から、抗がん剤論争そして治療論等々。いろいろな文献や本も読んでみた。のめりこむように面白いものはなかった。なぜそれらの本当は僕を引きこまなかったのか?ガンに関する話で面白いものはほとんどない。ただ、それなりに話題にはなる、トマトを食べるとガンが改善するらしい、そんな本でも売れる。生命にかかわることだから、多くの人がガンに罹患するから、それ以上でもそれ以下でもない。
1年の標準治療を経て、改めてガン治療を思考しようと思う。治療開始から1年はたってから思考しようと思った。1年で死んでは思考も何も、しゃれにもならない。1年考えた事をまとめながら、新たな治療に向かう。生命をかけた仮説であり、実験である。若いころに戦場やスラム等々を駆けていた頃と同じようにわくわくする。今は老いた。しかし、心はあのころによく似ている。生命をかけて、明日に向かう。智恵を出せ智恵を出せである。
自分自身を何かと言われれば「臨床家」でない、治療行為は嫌いである、「研究者」かと、問われれば、研究者ではない、ポリシーとして「論文」は書かない。単なる評論家である。言いっぱなしの評論家であり、気楽な傍観者でもある。しかし自分がガンに罹患した。ガンというものと正面から向きあることになった。 ガンの罹患を告知された時の心理的な動きも経験した。抗がん剤の副作用も経験した。末梢神経の、自律神経への副作用も経験した。骨髄への副作用、白血球の減少、通常は自覚症状はないのだが、その時の身体状態や回復するときの状況の何とも言えない違いもなんとなくわかる様な気がする。 そして医療をする側の動きも観察できた。
週刊文春の8月13・20日号にガン治療における論争が掲載されている。ガンの無治療法の近藤さんに対するディベートである。これまでの色々な人と近藤さんのディベートはほぼ近藤さんの完勝であり、このディベートも然りである。基本的なところで話は咬み合わない、というのも、医学は自然科学の範疇にはいるのだが、医療はあくまでも人文科学であり、医学と医療を同じとしている事に問題がある。お二人のディベートは医療科学の中での論争である。あくまでも人文科学の論争なのである。自然科学はシンプルである。しかし人文科学は複雑である。色々な見方や価値観が基本となる。そこに論争を持ちこむ場合、勝ち負けはほぼないと言っていいのだろう。
医療界の不祥事と言う話も出てくる。薬品会社との癒着ということなのだが、その前に自由主義社会である以上、医療も経済活動の一つに組み入れられている。誰もが、常に経済は頭にある。しかし、誰も経済を優先させようとはしていない。効きもしない分子標的薬を効くかのように論文を作っている事はありえない。結果としてそうなる事は、いろいろな面で世の中で二は多くある。ただ、医療界は、他の業界よりも経済等にまつわる不祥事が多い事も事実である。医師と名のつく人間は金と名誉が大好きかもしれない。少なからずいる。
どちらが科学的に正しいのかという命題を置くこと自体が間違っている。例えば週刊文春の文頭の話を見ると、がんもどき論に対するディベートでは、「早期胃がんを発見した時治療するいいがあると証明するには生存期間が延びたり、がんが治るというメリットを患者さんに示す事が必要だと思う。手術をしたから寿命が延びたという確としたエビデンスはお持ちですか?」と問い、それに相手の大場さんは「そのデータは現実的ではないし、比較試験としては存在しない。」と答える。
近藤さんは「そうなると、医者はエビデンスがないのに手術をしている。その点を患者さんに明確に示す義務があるのでは」と畳みかける。そこで大場さんは医の倫理を持ちだすしかなくなる。ここまで来ると完全にディベートとしては大場さんが不利な判定になる。読者の多くは、近藤さんに軍配を上げるだろう。
近藤さんのガンに対する基本的な論理は、なるものはなり、ならないものはならない、が根本である。どこかで聞いた事がある論理である。進化論での「今西進化論」である。哲学として、言い換えれば人文科学としての今西進化論には大賛成である。しかし、自然科学はそれを実証しなくてはならない。近藤さんの論も同じで、ならないものはならないのだから治療しても意味がない。その通りだと思う。大場さんは、成るものはなるのだったら、なったものにはどう対処したらいいのか、問うといい。治療による延命は難しいのだから、結局は放置しておく方がベターなのではと、近藤さんは答えるのだろう。しかし、ほとんどの罹患者は命が惜しい。可能な限り長生きがしたいと思っている。
多くの医者は平均として、もちろん特別はあるが、ガンを治癒させる事は難しいと思っている。しかし、罹患者の長く生きたいという希望に正面から取り組む、それが医の倫理であると信じて、治療に向かう。近藤さんは、無理なものは無理だからあきらめて生きている間の充実に取り組むほうがいいという。これは人文科学の論争であり、心感(こころかん)のディベートである。そこには答えはない。
あるレベル以上の状態のガンを治す、また治すに近い状況に至れば良いのだろうが、悪化する、又はるレベル以上のガンになると、治療をしてもさほど延命効果があるとは思えないデータがめだつ。
現実はディベートとして近藤さんの勝利であるが、抗ガン治療の取り組む人も大多数いる事になる。自分が抗がん剤治療をしてみて、初めてわかるのだが、藁にもすがりたいと言う罹患者の気持ちが、医者の放っておくと命取りになりますよ、との親切心が、近藤さんの論に賛成しながらも多くの罹患者が抗がん剤に走る気持ちも理解できた。
では、この人文学的なディベートに於いて、その考え方のどちらに組するのか、と言われれば、近藤さんとは反対の立場に立つことになる。近藤さんには近藤さんの人生がある、私には私のあるいてきた人生がある。近藤さんがどうなのかは知らないが、私は敗北者である。住友銀行の偉いさんに、「あなたは社会の落後者だ」と言われたぐらいだから、敗北者なのだろう。敗北者は敗北者なりに、「明日の永遠」を信じ続けたいと思う。明日に向かってもがき、あがきたいと思う。近藤さんのように、ダメなものは駄目だから、残された人生を見つめましょう、などは、私は嫌いである。生きている限りは明日が永遠である事を信じて、もがきあがき、ぼろぼろになっても前向きに倒れこみたい、私は未熟であり、私は弱き者である。近藤さんの論理は敬意を表する、その意見を尊重する、しかし賛成はしない。生き方の違いである。
私はもがきあがく方を選択する。そして人類の英知を信頼する。人類はいろいろな危機を乗り越えてきた、もがきあがき、無念にも倒れた多くの屍を越えてきた。私は人生の落後者であり、敗北者であるのだろう、でも人が好きだ、人を信じる。生き方を命題とする議論はやめよう、あがきの議論をしよう。生き方の議論は別の土俵でしよう。
確かにガン治療は自分が受診してみて混沌とした中で「標準治療」が叫ばれている。医療界の中身や、学界、標準治療の作成、歳を取ると見える事も多くなる。すべてがいい塩梅で進むものである。逆に、いい加減と言い換えてもいい。故に、反近藤的な論理にも肩を持つ気もない。
ガンの治療法には多くの議論をすべき点がある。その議論をしよう。ガンの制圧には時間がかかるだろう、もがきあがこう、そのもがきあがく議論をしよう、そこでぶつかり合うのもいい、それは人類の英知を信頼し、明日の永遠を信じることが前提にあるならば、殴り合いの議論も楽しい。
抗がん剤やガン治療に反対する人は言うだろう。「無理なものは無理、あきらめて残りの人生を有意義に生きるべきです。」と。おっと、私はそんなに人間は出来ていない。とことん、もがいてあがいてやろう、志半ばで倒れようと、次に来る人のプラスになるだろう、私の屍を超えて、次なる人々は高みに登れるだろう。しかし、本文は決して「遺言書」ではない。もがき・あがき、生き抜くためのマニュアル書である。未完に終わる可能性もあるのかもしれない。しかし、遺言書ではない事を明確に記しておきたい。
いろいろな文献や本も読んでみた。のめりこむように面白いものはなかった。なぜそれらの本当は僕を引きこまなかったのか?ガンに関する話で面白いものはほとんどない。と先述した。心から絞り出した言葉で書かれたものが少ない。もうくだらない議論はやめにしよう、あがきの議論を本気でした方がいい。医療関係者も多くの方がガンに罹患しているだろう。その体験を心の声を叫ぼう。生き方の違いに、抗がん剤などの自然科学っぽい話を持ち込んでも仕方がない、明日のために何をすべきなのかを語ればいい、それでも医者という人種には斜めに構えて語る輩は沢山いる。斜めに構える事がカッコイイと思う人種である。そんな連中は無視すればいい、必ず淘汰される。正面から立ち向かい、倒れる事を恐れてはいけない、真剣に語ろう、心の声で語ろう。
無治療である事などは人生観の違いで議論の余地はないと思う。土俵が違う。でも同じ治療派でも、引き込まれるものは少ない。基礎医学の文献を言っているのではない、あくまでも医療科学の範疇の話である。
自分が経験してみると、ガン治療も、と言うのは、医療は日進月歩であると言われながら、まだまだ右往左往している事が少なくない。そして医療の効果の多くを人間の持つ何らかに力に多くを頼っている。機器・薬材等々の著しい進歩は、医療側・患者側の負担自体を相当楽にしている。負担が楽になる事により患者の持つ力が治療効果を高めている事は確かである。
ガンは生物体である。感染症の病原体も生物体であり、異生体である。ガンは少し違う。同生体である。故に病原体治療とは趣と味わいが違う。病原体は除けばいい、それが原則である。
ガンは何人かいる子どもの内の「やくざ」な子どもである。親の遺伝を引き継いでいるのは確かであり、エピジェニックな条件が違い、成長したのである。ガンは生物体である。私たちの身体に感染する病原体は寄生体である。ガンは少し違う。結果として寄生体として判断されるが、同生体である。故に病原体治療とは趣と味わいが違う。何人かいる子どもの内の「やくざ」な子どもである。親の遺伝を引き継いでいるのは確かであり、エピジェニックな条件が違い、成長したのである。
子どもの状況を早期に把握して、対処すればそれなりに子どもも立ち直る。しかし、相当なレベルになると復帰させることは難しくなる。レベルとは病期である。
生物は死に向かって老化する、しかし体の細胞は常に動的である。ガンも動的である。動的にレベルが違う、それを利用している。故に大きな副作用がある、やくざな子どもがいる家庭が、平穏と暮らしていけることは少ない。取り除くことが一番いいのだろう。そして刑務所にでも服役してもらう、しかし刑期を終えると出てくる、一度やくざな人間を出してしまい、地域に迷惑をかけると、そこで暮らしていけても肩身は狭い。多くの場合、家庭は崩壊する。多くの家庭はそうなるのだが、家族が力を合わせ、手を繋ぎしっかりとした家庭を維持することにより家庭の崩壊を食い止めることができる。
病原体の様な疾患は別にして、そして一般的な代謝性の疾患は、なにはともあれ、平均寿命まで8割程度の確率で引っ張れれば、いいのだろう。ガンもその一つであり、何歳で罹患しても、平均的寿命まで8割程度は引っ張れる、それが目標でいいのだろうし、おそらくそれに向かって動いている事なのだろう。比率をできるだけ上げるのが治療の目的になるが、30%の死因の疾患の平均寿命を上げるとすれば全体の平均寿命は相当上がる。そうなると社会全体を考えたら死に方の方が問題になりそうである。この事はまた考える事にしよう。
ガンも病原体も様々な表情を見せる。どれ一つとして同じものはない。それが生物科学の面白さともいわれる。もし同じ条件下に二人の人間を置いたとき、ある感染症に罹る人と罹らない人が出てくる。同じガンでもその表情は違う、罹患する人によりすべてが違う。humanity 人間らしさ。人間性。人間味 ヒューマニティーメデイスン 今でいうテーラーメイドメディスンだがもう少し人間性に重きをおくものになる。そんな医療が今後の医療である。ガンの表情はその人間性が現れるのだろう。
ガンと告知されたらどうするか?
日本人の二人に一人は罹患する、そして三名に一人ががんで死ぬ。ガンの治癒率は60~70%程度、生存率は・・・、情報が嫌ほどある。また、抗がん剤は毒である、ガンは無治療が一番等々のあふれんばかりの情報により、大いなる錯覚が広く伝搬している。
本文を改めて始める
「日本人の二人に一人は罹患する、そして三名に一人ががんで死ぬ。日本人の男性の平均寿命は約80歳である。基本的にはガンは治癒しない。無くなるか、増殖するか、少しずつ大きくなるかしかない。増殖し何らかの機能を阻害するようになると命にかかわる。ガンの罹患者の生存率は条件が違うから述べることは、難しい。」 が正しい。
韓国で流行したMARSも、200名程度が罹患し30名程度が死亡している。やく15%~20%の死亡率である。エボラが先進諸国に蔓延した場合もう少し高い死亡率になるのだろう。30%前後だろうか、ガンもその程度になるだろう。もちろんガンを疾病と考えた場合なのだが。私は、ガンは疾病とは分けて考える方がいいのではないかと思う。
上記の韓国等の例におけるガンの死亡率はガン全体を見た場合であり、病期をⅢⅣあたりに絞ると、確かに高くなる。開発途上国も含めた致死率で最も高いのは狂犬病の100%近い疾病ある。話題のエボラで開発途上国という条件下に於いて80%ぐらいだろう。鳥インフルエンザで50%程度、ガンの場合感染症とは違うし、ガンも色々とあるので、感染症の致死率をいうのは難しいが、おそらくは、感覚として、60%程度と憶測する事ができるのだろう。
後天性免疫不全症候群(AIDS)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)が免疫細胞に感染し、免疫細胞を破壊して後天的に免疫不全を起こす免疫不全症のことであるが、100%発症し適切な治療がなければ数十年後には90%以上の確率で死亡する。ガンは形としてよく似ている。しかし全体としての死亡率はそれほどでもない。日本人の死因から見れば、そして時間軸を無視すれば60%程度なのだろう。
厚労省の人口動態調査を見ると
死亡数は126 万9000 人、死亡率(人口千対)は10.1 と推計される。
なお、主な死因の死亡数は、第1位悪性新生物37 万人、第2位心疾患19 万6000 人、
第3位肺炎11 万8000 人、第4位脳血管疾患11 万3000 人と推計される。と記載されている。
ガンというものは、自然は織り込み済みのものであり、寿命の延長とともに注目されてきたといえるのだろう。他の死因疾患とは違うものであると考えるべきであり、自然死に近いものだと考えるべきものなのだと思う。
できるだけ長く生きたい、それは人間の性である。動物界でそのような思いを持つ種はない。
死は役割の終わりであり、生命の継続に関与できたしるしでもあり。動物はそれを自然に受け入れている。人間は考える事、意識することを獲得した故に、できるだけ生き続けたいと思い、それが様々な進歩を生じせしめたといえる。
基本的にガンはゆっくりと進む。 おそらく罹患率をいえば100%に近いのだろう。多くは高齢になり出現する。ガンを駆逐したければ、早期発見が重要であることには間違いがない。早期に見つかれば、薬一つ飲めばガンがなくなる、という時代はまだ来ないが、そんな時代もそう遠くはない。早期発見の場合の治療の考え方、どう対処するかという議論は残るが、現状に於いても治癒率は高い。そして再発や転移の問題もあるがこれも含めて後で考えてみたい。
今のガン治療の本線が、3大治療と言われる 外科手術・抗がん剤・放射線である。基本的には人為的にガンを除去しようとの考えである。
抗がん剤はガンのターンオーバーの速さを利用して、それは他の兄弟との違いを利用して治療を行うメカニズムである。ひとつ間違うと家族も迷惑がかかる治療法である。子どもがぐれるときは急速にぐれる。これも面白い現象なのだが、一気に不良グループに入っていく。不良グループの中でどうなるかは、ガンの進行度があるように、不良になっても進行度の違いがある。
抗がん剤は毒であるという、もちろんそうである。薬は毒である、バカとはさみは使いよう、薬は毒であるが、バカと毒は使いようである。個人的には抗がん剤の今の考え方は間違っているようにも思える。しかし今は、それしかないのないのなら、現時点に於いては,どう使うかを考えなければならないのだろう。
抗がん剤治療を1年にわたり経験してみて、抗ガン剤が多くの患者を死に追いやっている事も事実なのだろうと思う。しかし、医療側としてはこれしか方法がない。現場の医師にその責任を押し付けるのもかわいそうである。研究者の責任である。私もその中に入るのだろう。もし私がガンの研究者ならば、やはり抗がん剤を考えただろう。今だから言えるし、今だからいろいろわかってきたからの意見だが、研究者にはやはり責任がある。
まずは、私の様に病気で言うとⅢ、Ⅳのレベルの対応であろう。私と全く同時期に同じ部位のがんで治療を開始したMさんがいる。私は摘出後するにはいの転移があり、彼はほぼ2カ月の予防的抗がん剤治療後数カ月で膀胱に転移している。ただ言える事は二人とも元気であり、彼も手術前の体重に戻ったという。この事実関係を見ると、おおざっぱだが、私たちはⅢのレベルで手術をし、Ⅳになった。摘出自体は問題のない治療なのだろうが、抗がん剤治療は効果を見せていないのかどうか。ただ、私の場合、抗がん剤治療により肺にあった扁平上皮がんは消失している。転移肺がんは出たり入ったり、ほぼ1年を経て多少大きくなっているとの意見もあるが、画像上の誤差の範囲でもある。効果があると思える状況にあるのかもしれない。
ただ抗がん剤は効果にしろ、副作用にしろ、個体差が非常に大きい感がある。抗ガン剤は個人差が大きい、これほど個人差の大きいものは「痛みの感受」がある。これは精神的なものがほとんどなのだが、人の心理を読む事は難しい。
一年間抗がん剤治療を続けて、受けてみないとなかなかわからない。私は学生時代薬理学教室の佐藤精一教授に公使にわたり並々ならぬお世話になった。多くの日を教室に入り浸っていた。門前の小僧習わぬ経を読む、でもないが、6年間で多くの事を教えてもらったし、知る事が出来た。卒業後も薬理学とは近い関係を維持してきたから、薬理学の基礎はよくわかるつもりである。その前提で、ガンに罹患してから抗がん剤に関する文献等を読むが、なんとなく引っかかる事も少なくはなかった。抗生物質とよく比較される様だが、抗生物質と比べて論理的に理解というよりも、納得ができない事も少なくはないのが抗がん剤である。
病気を治すという事は、治癒力である。薬等はあくまでも治癒力の補助的な役割しかない。しかしその薬などの使い方があり、それを治療力としよう。では治癒力とは何か、その生物体が様々な障害に対し元の状態に戻す力である。基本的には、遺伝的な問題と後天的な環境要素による力であり、厳しい自然環境にある生物がいが強い力を持つと言われる。
しかし、人間だけが少し異なる能力になる。人間力とは何か、治癒力でもない、体力でもない、気力でもない、もちろんそれは基本である。しかし治癒力も体力も気力も人間以外の動物は持っている。人間力は人間だけしかない。
ガンにおいても基本は同じである。治療力そして人間力である。治療力とは医療力ともいう。医療力は偶然的要素が多いし、結局は人間力に支配される。ということは人間力がすべてともいえる。人間力とは何か?本来それは私のライフ・ワークである、子ども達の人間力を如何に育むのか、人間力とは何か?だから、今の私に正解を述べることは難しい。おおよそ今までの調査・研究や思考からこんなものなのでは、という程度であり、そして私のガン経験が加わるレベルである。だから、この文章を読んで実践しても、ガンから脱出することは100%は難しい。しかしおそらく高い確率でその人は生きる。実践できるのかどうかは知らない。生物体は同じものは2つとしてない、が原則である。
ガンに関して食事の内容についての本が良く出ている。確かにある一定の範囲で食の種類は関係はするだろうが、それほど気にする事もないと思う。それよりも、しっかり食べる事が人間力を高めるために必要である。食についてはまた後述する。食は人間量における基礎力として大変重要なのだが、食の種類ではなく食自体にあると思う。本書は最終的に「人間力」をいかに高め、そして如何にガンに対処するかが目的である。
身体の中で不要な組織・臓器はほとんどない。不要な組織・臓器は進化の中で消える。 ガンは、身体において不要な組織・臓器であることが前提である。「親知らず」がある、この歯は不要といえる臓器である。そして親知らずは、萌出する余地がないと消失する。生きるためにどうしても必要でない臓器は、その条件次第で消失する。これが大きなヒントになりそうである。
まず抗がん剤について考える事から始める。結論的に言うならば、「抗がん剤は効くときは効くし、効かないときは効かない」である。抗がん剤は効きにくいとの意見もあるが、効かない事はないのが実感である。ではなぜ個体差が大きいのか、耐性獲得が高いのか。
基本的に抗がん剤は「分裂速度の速い細胞」を標的とし、細胞毒性によってがん細胞を死滅させる。着目した因子がDNAで、細胞の増殖にはDNAの複製が必須であるため、DNAの合成を阻害することでがん細胞の増殖を抑える、と考える。
イギリスの進化生物学者であるドーキンスは「Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)」で、「自然選択の実質的な単位が遺伝子である」とする遺伝子中心視点を提唱したことでよく知られている。「生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」という。
彼の意見に100%賛成でもないのだが、遺伝子は生物の基本的な単位である事には間違いがない。そして突然変異等の変化はこの遺伝子が行う。だから遺伝子は迫害や変化には確かに強い。多細胞としては少なくとも5億年ほどは生きているのだから、歴戦の勇士である。遺伝子をやっつけるのはそう簡単ではない。
抗がん剤の新しい考え方として分子標的薬がある。その作用機序はいくつかあるのだが、遺伝子に対応するのはどちらにしろ強敵である。
先述したように結論的に言うならば、「抗がん剤は効くときは効くし、効かないときは効かない」である。なぜこのような事が生じるのか、結局はこれも先述した人間力と治療力の問題になる。もちろんどの治療法においても同じことが言える。
抗がん剤は考え方に厳しい点がある。よって今のように標準的な治療でそう簡単に使うものではないように思う。使い方が大変が大変難しい。適切に使われる「治療力」が必要になる。
私は人生でいろいろと追いつめられた。その時は常に「健全な精神は健全な肉体に宿る」をテーマとして体を鍛えた。
ガンの罹患が分かった時も同じであった。健全な肉体を作ることを優先した。仕事も休止した。毎日食べて歩いて、治療が始まる最後の土曜日は20㎞のウオーキングをした。